NOVEL | ナノ

 夏油先輩と私が彼を呼ぶと夏油先輩本人より先に反応するのが五条先輩だった。また来たのかよという顔をしてはうるさそうに手で追い払うようなしぐさをする。
 呼んだのは五条先輩のことじゃないんですけどいう私に五条先輩はにこやかに笑うとそのまま肩を組むようにして私の体に手をまわし力を込める。遠慮のない力の込め方に体がぎしぎし言って思わず悲鳴とともに彼の名前を呼ぶと俺の名前も呼んだねと満足そうに五条先輩は手を離した。
「お前も懲りないね」
 私が夏油先輩についてまわるたびに、五条先輩はそういった。五条先輩とふたりのときは別にふつうで、優しかったりもするのに夏油先輩がいると五条先輩はいつも厳しい。
 男の人同士の親友のことを正直なところわかるとはいえないけど、親友にまとわりつく女は気に入らないものなんだろうか。そういうと夏油先輩はひとしきり笑って(初めて見るくらい笑っていたのでそんなにとんちんかんなことを言ってしまったのだろうかと恥ずかしかった。笑う先輩はそれはそれでかっこよかった)悟は素直じゃないからなといった。五条先輩ほど素直な人もいないと思うのにと首をかしげる私に夏油先輩は今度は優しく笑ってから私の頭を撫でてくれた。そうして撫でられると私はもうなんにも言えなくなって、夏油先輩のことで頭がいっぱいになってしまう。
 夏油先輩が好きだった。夏油先輩は私にいつでも優しくてかっこよくて強くて正しかった。でも五条先輩と一緒にいる夏油先輩はもっと好きだった。五条先輩といるときの夏油先輩はいちばん楽しそうだったから。
 私が夏油先輩にまとわりつくのを嫌がるくせに、五条先輩は私と夏油先輩のことを時々聞きたがったりした。なんにもないこと答えると自分から聞いたくせにどこか不満げな、どうでもいいとでもいうような顔をした。
「お前みたいな弱いやつ、いつか呪術師なんてやめて逃げ出すよ。高専からも傑からも、俺からも」
 五条先輩はときどきそう言う。弱いと言われたら反論できないことを知っているからわざとそういう言い方をする。そういわれるたびに逃げませんよと笑って答えたけど、どこかでちょっとだけ傷ついていた私のことを、五条先輩はわかっていたと思う。自分で言ったくせに私が傷ついたことを察すると全然楽しくなさそうな苦々しそうな顔をしていた。そんな顔するくらいなら言わなきゃいいのに。
 弱いやつは嫌だねと言うその唇が憎らしくて、だけど嫌いじゃなかった。嫌いにはなれなかった。きっと、こういう顔をしてくれるとわかっていたからかもしれない。
 五条先輩はその顔を凍り付かせて私を見下ろしていた。どんな呪霊のまえに対峙していたときですらなにも怖いことはないというように笑っていたのになんだかおかしい。そんな顔、初めて見た。
 まるで神様みたいに空から降りてきた先輩は凍り付いたその表情のまま私の隣に膝をついて、見下ろしたままそのくちを開く。けれどその薄いくちびるから言葉はなにも発されなかった。言葉で誰にも負けないような人なのに、その表情といい、珍しいところを見てしまった。
 息をすると胸の辺りが強く痛むと同時に口の中に血が滲んだ。肺どころか胸からひしゃげているせいかもしれない。心臓の鼓動のように痛みが脈打つ。たぶん顔もすごいことになっているし片目は潰されたおかげでもう見えない。体とともに臓器の半分くらいはふっとんでいて反転術式で治せる限界をすでに超えてしまっていた。
 ぐちゃぐちゃの死体のような私を見たまま五条先輩はなにも言わないので、勝ち誇るように笑ってやった。
「わたし、勝ちましたよ」
 逃げませんでしたと言いたかったことを悟ったのか、五条先輩はまゆをあげて怒ったような顔を一瞬して顔を歪める。だけどそれから笑ってくれた。いつもの先輩の笑顔と違ってちょっと困ったような顔だった。
「やるじゃん」
 その言葉をもらって、私も満足して笑った。思わずやったあと素直に声に出すと、先輩は馬鹿だろと言った。弱い馬鹿は早く逃げればよかったのだと、そうすれば死ぬことなどなかったのだと、そう言いたかったのだろうことには気づいていた。でもそうしたらいつかの五条先輩の言葉通りになってしまう。それこそ先輩のいう『弱いやつ』に本当の意味でなり下がってしまうような気がして嫌だった。
 血で張り付いていた私の前髪を五条先輩がその指ではらう。優しい手つきで触れられるのはむずがゆかった。
 蒼いその瞳は細められたまま私を見ている。いつも身につけているサングラスはかけられていない。五条先輩も戦ってきたのだろう。こんなところにいていいのだろうか。視線で私の意図することがわかったのかああ、と答えてくれた。
「もう片付けるだけ片付けてきた。あとは弱っちい後輩を拾いにくるだけだったわけ」
「夏油先輩は、一緒に、戦ってくれたんですよね」
 戦った呪詛師のひとりが夏油先輩のこと、味方みたいに話しててとそう続けても五条先輩は表情を変えない。驚いたりとかそういう知っていたという表情をしなかったからほっとした。信じていたけど、疑うことは恥ずかしかったけど、それでも心のどこかでそれが『本当かもしれないこと』が怖かったのだと思う。だから、先輩が表情を変えなくて、安心した。どれだけ口が達者でも先輩はこういう場面での嘘はあんまり上手じゃなかったから。いろんな意味で先輩は素直すぎる人だったのだ。
 きっといつものようにふたりでめちゃくちゃにしてきたのだろう。二人がそろっていて勝てない敵なんていないんだから。
「……最期に会うのが傑じゃなくて俺で残念だったね」
 私の質問の答えとはちょっと違うその言葉に少し考えてから私は首を微かに横にふった。
「五条先輩でよかった。だってこんなひどい姿、夏油先輩に、みられたくない、です」
 死ぬことを仕方ないと受け入れられても、さすがにこの姿で好きな人とは会うことは怖かった。彼に最期に会いたいと思う以上に夏油先輩の私の最後の記憶がこんな血みどろになるのは嫌だった。
 そういうと五条先輩はなぜか傷ついたような顔をした。私のことを傷つけたときにするような顔だった。今更になって、ああやって私を傷つけたときに五条先輩は傷ついていたことに気づいてしまう。
 びっくりして、だけどなんだか無性に慰めたくなって私は残っていたほうの手を五条先輩に伸ばした。力の抜けきった手のひらだったけど、五指がちゃんと残っていてよかったなと思った。
 先輩は私の手を取ってくれた。あたたかい手のひらが私の手を握ってくれる。握り返してあげたかったのにもう指に力は篭らなくてもどかしい。
「でも五条先輩が、きてくれて、よかったのも、ほんとに、ほんとですよ」
「……」
「一人で死ぬの、ほんとは怖かったから、だから、来てくれて嬉しい」
 まともにうごこうとしない指先で彼の手のひらを撫でた。ほんとうは大丈夫だと握ってあげたかったけど、できなかったから、だけど彼の心を少しでも慰めてあげたいと思った。その顔はまるで迷子の子供みたいでとても最強と名高い呪術師には見えない。
「お前まで置いていくなよ」
 あまりの無茶を言うので私は思わず微笑む。といっても五条先輩が無茶を言わなかったことの方が少ないので先輩らしいと言えばそうだったかもしれない。そんなに必死な声で言われると私も本当は死にたくないと認めてしまいそうになる。
 ついに白くかすんできた視界に必死に目をこらした。これがほんとうの最後だということを分かっていたから、私は最期のお願いを口にした。わざわざ口にすることなんかじゃなかったかもしれないけど、だけどやっぱり心残りはそれだけだったから。
「夏油先輩のこと、頼みます」
「……お前にわざわざ言われることじゃないよ」
「五条先輩にしかお願い、できません。だから」
 五条先輩の手のひらが私の頭を撫でた。おっかなびっくりとでもいうような、だけど優しい手つきだった。五条先輩にそんな風にされたのは初めてだった。夏油先輩にそうされたときのことを思い出す。涙が一粒だけ目から零れ落ちた。
 全然違う手つきだった。でも同じように優しくてあたたかかった。声にならない吐息が口からこぼれる。
「俺が全部なんとかするから安心しろよ」
「……せんぱい」
「心配しなくていいから、もう眠っていい」
 その言葉に安堵が心を満たす。安心すると同時にどっと体が重くなった。目を開いているはずなのにもうなにも見えない。でも五条先輩がなんとかするといってくれるなら、もう大丈夫だろう。だって五条先輩にできないことなんてないからだ。なにかを伝えたくても、もはやくちは動くことはない。意識がすべてから遠ざかる。
 それでも心に死に対する恐怖や置いていくことへの不安はなかった。こうして、五条先輩が手を握ってくれたから怖いものはもうなかった。悔いも、なかった。
「最期まで傑のことばっかりかよ」
 だから私は五条先輩がそう悔しそうに呟いたことも、永遠に知らないままだ。

さらば我が春泥

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