NOVEL | ナノ

 死んじゃいそうと言うと、こんなことで人は死なねえよと彼は言った。
「力抜け」
 低い声がそう囁く。私は泣き出したいような思いで息を吐いた。力の抜き方など分からなくてますます力のこもる私に彼が喉の奥で笑う。その笑い方が好きだと思った。笑い方も話し方も彼のまとう空気も手の大きさも人でなしのところも、全部、全部、好きだった。自分にもどうしようもないくらい、好きだった。
 床に背が擦れてかすかに痛む。なだれ込むように始まったおかげで近くにベッドがあるというのに床でこうやって抱き合っている。
 ほんとうに前触れもなく彼を私を見つめ、名前を呼び、手を伸ばして、その腕の中に引き寄せた。凍り付く体のなかで心臓だけが燃えるように強く脈打っているのがわかって、私はそのまま彼の腕を抵抗することなく受けいれた。だってきっと私は、ずっとこうなりたかった。
「覚えておけよ」
 何をとは聞けなかった。彼がそのまま私のくちびるをふさいでキスをしたからだ。そうされると脳みそまでどろどろにとけていくようで、私はとても恐ろしいと同時にこのままどうにかなってしまいたいと思った。
 そんなことを言われなくたって忘れられるわけがない。こんなことを、好きな人としたキスやセックスを、どうやって忘れられるというんだろう。
 愛しい人の肌は、触れ合った部分から愛しさが増すようだった。重なり合った肌から聞いた好きな人の心臓の音はなにより愛しいと思った。汗ばんだ肌の熱さにやけどしそうだった。してしまえばいいのにと思った。そうして一生の傷になって私の体に残ってしまえばいい。
 上に重なる彼のからだは重たくて、大人の男の人の体はこんなにも重たいものなのだなと思った。この人以外いらない。いらない。いらないのに。この人は私を置いていくだろう。その予感が強く胸を焼いていた。
 私のものにならないこの人のことが好きだ。そういうところも愛おしくて仕方ない。だけどこの人が私から離れていくのを考えると寂しくてどうにかなりそうだった。最初からこの人は私に別離しか与えないことくらい、子供である私にだってわかっていたのに。
 それでも愛している。これが恋だ。きっともう二度とこんなふうには人を愛せないだろう。
 伸ばした手のひらで彼の背中に縋った。その背中の厚さを覚えておけるように目をつむって強く強く抱きしめる。このまま死にたいというと物騒だなとそんなことこれっぽっちも思ってない声が聞こえて私はそのくちびるをふさぐようにキスをした。
 彼にあったのはその日が最後だった。

 似ているなと思ったのは初めて恵くんと会ったときからだった。面影だとか雰囲気だとか、そういうものが一目で彼の血筋だとわかるくらいに、似通っていた。
 どれだけ容姿が似通っていたとしても恵くんという人間が彼とはかけ離れたものであることぐらい一緒にいるうちに良く理解していた。知れば知るほど、私の知る彼(といっても私が彼の多くを知っているとはとても言えないのだが)とはまったく違う、善良で優しい男の子だとわかっていた。それでも、それでも。私は年を重ねるごとに彼に近づいていくその姿に、その仕草に、その声音にときどきどうしても彼の姿を見てしまう。
 彼と一緒にいられたのはほんの少しの期間だけだった。今よりも幼く、無防備で、何も知らなかった私の心の柔らかな部分をめちゃくちゃに踏みにじって姿を消した彼はおそらく私のことをどうにかしてしまったことにすらなにも思わず、私をどうしようもなく惹きつけるあの笑みで笑うのだろう。もうながらく会っていないのに、きっとこれから会うこともないだろうに、私は脳裏に完璧に彼のその笑みを思い浮かべることができてしまう。
「……名前さん」
 耳元でささやかれる名前は張りつめていてその声だけで彼の緊張が伝わってくるようだった。私はあのときのように、私を抱き寄せるその腕を拒絶しなかった。
 立場は逆転していた。私を抱き寄せる恵くんの腕はいつかのあの日、彼に抱きしめられた瞬間の私と同じように緊張でこわばっている。
「なんで拒絶しないんですか」
「そうしてほしいの」
 恵くんはなにも言わない。拒絶してほしくないことぐらい言葉にされなくたって分かる。しないことが彼をより傷つけるのも分かっている。それでも私は、自ら恵くんにキスをした。
 つかまれていた肩に力がこもり、恵くんはキスを深くする。おずおずと伸ばされる舌に絡めるようにして応えるともっともっとというように求められる。必死なところが可愛いかった。私にくちびるを押し付ける彼の力がどんどん強くなっていって私の体は床に押し倒されるようになる。至近距離で私を見下ろす彼の瞳は切なげに歪んでいた。彼によく似た顔立ちで、彼がけしてしないだろう表情を恵くんはする。
「俺はずっとあなたが好きです」
「……うん」
「あいつがまだ好きですか」
 あまりに直球で私はびっくりしてしまった。すごいなと思った。その表情をどうとったのか恵くんは眉を下げると私にくっついてくる。すきますらないように抱きしめる腕は優しくて、宝物を抱くようで、自分がとても大事なものになったような気がした。
「代わりは嫌です」
 静かな声だ。静かで低いその声は、私をただ愛しいと言っていた。
「それでも、名前さんが望むなら、それでもいいと思ってます」
 恵くんと思わず彼の名を呼んだ私のくちびるになにも言わなくていいというように恵くんはキスする。そうして床に横たわる私をあっさりと抱きあげるとそのままベッドへと連れて行った。そんな風にされたのは初めてだったのでまたびっくりした。
 手を伸ばされて頬をそっと撫でられる。伏黒くんは私をじっと見つめていた。他の誰でもなく、私を愛しいのだと見つめていた。
「誰かの代わりなんて誰もなれないよ」
 本当に心からそう信じているのか、自分ですらわからない。本当に、代わりとして見たことなんてなかった? そんなのは嘘だと私がいちばん分かっている。だけどそれでもその代わりになんてなれないという言葉もきっと私の本当だったから、だから私は彼に両腕を伸ばした。
「私のこと好きっていうなら誰かの代わりなんかじゃなくて、恵くんが触れて」
 その言葉で堰が切れたように恵くんは私を抱きすくめて押し倒した。性急な動作だったけど、その仕草のすみずみに滲むのは私への労わりと優しさだった。そんな風に優しくしなくていいと、なぜかこらえきれないような気持ちになって彼を煽るような言葉を放った。それでも恵くんの触れる手はあたたかくて、けして私を傷つけなくて、あの燃えるやけどのような痛みの滲んだ感覚を私の肌に与えなかった。
 彼のからだは男の子のもので筋肉質だというのにどこか骨ばっていてかたかった。抱き合うと余計によくわかる。自分の体が抱かれたあの時からふれれば柔らかく沈みこむような女のものになってしまったことも。
 これは復讐になるのだろうかと考えて、あまりにバカげた想像に首を振った。こんなことであの人は傷などつかない。むしろ笑うはずだ。脳裏にあの人の笑みを浮かびかけたところで、恵くんが私の目を覗き込んだ。
「俺を見て」
 黒々とした瞳に私が映り込んでいる。熱に浮かされたようなぼんやりとした顔だ。あのときのような激情には浮かばされていない。二度とこんな風に愛せはしないだろうと思ったように、あのときの激情はあの日に置き去りにされたまま、もう二度と抱くことはないだろう。
 私を縋るように抱く彼の気持ちが私には手に取るようにわかった。愛しい人と触れ合った部分からその愛しさが増すような感覚も、重なり合った肌から伝わる好きな人の心臓の音はなにより愛しいことも、全部わかってしまう。きっと私もいまの恵くんのような顔をしていたのだろう。あの日の私は今日の恵くんだった。
 それでも、私は今、目の前にいる彼が確かに愛しかった。穏やかで、あたたかな陽光のような感情だった。あの烈火のような感情はもう私の心を燃やしたりしない。でもきっとそれでいい。

 体のだるさとともに目を開けると、恵くんの寝顔がいちばんに視界に入り眠る前になにをしたのかを連鎖的に思いだした。恵くんのその幼い寝顔に自然と頬が緩む。はたと一つのことを思いだして、ベッドから抜け出そうとした私に彼が身じろぎする。名前さんと寝起きの、どこか縋るような声で呼ぶので私は彼の頭をそっと撫でた。
 鏡の前のドレッサー代わりにしているテーブルの引き出しにずっとしまっていたものを出す。白い小さな箱だ。大分前に買ってずっと渡しそびれていたものだった。
「プレゼント。ずっと渡そうと思ってたんだ」
 はいと彼に渡し、開けてみてと視線で促すと、恵くんは素直にその手のうえで箱を開いてみせた。中に入っていたのはシンプルなピアスだ。できるだけ彼に似合うような、大人になってもずっと付けていてくれるようなものを選んだつもりだった。
「俺、開けてないですよ」
「うん知ってる」
「……開けた方がいいですか」
「ううん、いつか恵くんがあけたいと思ったときでいいよ。持っていてくれるだけでいいんだ、なんなら開けなくてもいい。でももしその気になったら私に開けさせてほしいの」
 あの人は私になにも残してはくれなかった。奪うばかりで、あとに残るのは私の心にあいた大きな穴だけだ。時間がたって傷が癒えるようにその穴は少しずつ元に戻っていく。平気になっていく。それでも私はその穴がふさぎきることはないと知っている。
 あの人が私に傷しか残さなかったように、私が恵くんに残すのも結局傷でしかないのだろう。それが分かっているからこそ、それ以外の目に見えるものをあげたかった。彼の耳に手を伸ばす。白くて薄い耳朶だ。この耳に最初に穴を残すのは私なのだ。そう思うと余計に愛しい。
「恵くんの遺品になるのか私の遺品になるのか、楽しみだね」
「……縁起でもないですね」
「あはは」
 おかしくて笑った。それからどちらからともなくキスをした。たぶんピアスを買ったときから私は恵くんとこうなりたかった。
 なんだか泣きそうになる。そんな私に恵くんは腕を伸ばし、抱き寄せてくれた。泣きそうになる私を抱きしめてくれる人が目の前にいる、だから、それでいいのだと思う。

罪悪を実らせる

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