女の髪に強い呪力が籠る性質が出やすい家に生まれた私は幼いころから髪を長く伸ばしていた。そうするのが当然だったからだ。その家のなかで髪に宿る呪力を制御することのできなきかった私はおちこぼれだった。私の呪力はまったくいうことを聞かず他人どころか自分自身さえ傷つけたるのが常だった。
制御するすべを持つこともできず、すべての根幹の髪を切ることもできずにいた私を見かねた母はきちんと気持ちを込めて髪を結べば、その力は自分のものにできるのだと言い聞かせた。だから大丈夫、なにも心配することなどないのだと、私の頭を撫でて優しく結ってくれた。強い呪術師として名をはせ私の物心がつく前から飛び回っていた母にまともな親子のように接されたことなどほとんどなく、記憶している思い出は実のところそれくらいしかなかった。
私はそのときから、その記憶を反芻するように、願いを込めて、髪を結ぶようになる。母の言う通り、髪を結うことで私の呪力は暴走することなくきちんと支配できるようになった。あの家の中で髪を結んでいた女など私ぐらいのものだったが、できそこないと後ろ指をさされようと毎日欠かすことなくきちんと結った。そうすれば力を支配下におけた。術式も上手に扱えるようになった。できないことができるようになりまともな呪術師に近づく代わりに、私は髪をほどくことに恐怖を感じるようになり、人の目に触れるところで髪を下ろすことはなくなった。ほどくのはそれこそ、完全に気を許せるような一人きりの時間だけだった。
今日も力を制御できますように、毎日祈るようにして髪を結ぶ。そうするたびに母の言葉を思いだし、安心できた。母との時間はほとんど数える程度のものでしかなかったが、それでも母だけが私の救いだった。私に優しかったのは母だけだったからだ。そんな母は私が高専にあがる前に呪術師として役目をまっとうし一人で死んだ。
蒼い瞳が私をじっと見つめている。その瞳に至近距離で見つめられているというだけで心臓がおかしくなりそうだった。いつも彼が身に着けているサングラスはすでに外されていて、彼の瞳を隠したりするようなものはなにもないので余計にだ。
膝を突き合わせるようにベッドの上で向かい合って座っているせいで距離はものすごく近い。心臓はこれ以上もないほど脈打っていて、呼吸すら危うかった。それでもそれがけして嫌な緊張じゃないのは、ひとえに彼が好きだからだと思う。
自分でほどいて見せてという彼の言葉通りに髪に伸ばしかけた手を止める。手は自分でもわかるくらいに震えていた。手のひらに滴るほどの汗がにじんでいた。
「そんなに、見ないでください」
穴があきそう。吐息に溶けた言葉は彼の耳に届いただろうか。彼はいつもそうするように、人をおちょくる言葉も発さないままだったので、私は自分の眉が情けなく下がるのがわかった。その整った顔を歪めていつもみたいに処女みたいな顔をしてるとでも笑ってくれればいいのに。そうしたら私もどうせ処女です、悪いですかと冗談としていえたような気がする。
自分で考えて下世話だなと突っ込んでしまうような冗談だった。彼に出会うまでの私にはとても思いつかないような言葉だ。信じられない。全部彼のせいだ。
息を深く吸った。それからもう一度、手を自分の髪に伸ばして触れさせる。手になじむ慣れ親しんだ髪の感触に、私は、震えを止めることができないまま髪留めに指をかける。
「怖い?」
彼に問われ、小さく頷く。人の前で自ら髪をほどくのはそれこそ母と約束を交わしたあの時からから記憶がない。目の前のこの先輩に面白半分で髪をほどかれかけたときがあったがあのころとはなにもかも違っている。どうしてこんなことができるんだという恐怖と憤りと不安で泣き出しそうになった記憶は確かに残っているのに、それでも、その記憶すら少し愛しく感じるから、恋ってほんとうに人を馬鹿にさせるものなんだなと思った。
「お前がどれだけ暴れまわろうとと俺はケガなんてしないけど」
誰よりも不遜なその言い方に笑ってしまう。それが私を安堵させるために発された言葉だと分かっているからなおさらだった。この人ってそういうときですらこういう言い方しかできないのだ。
事実、たとえ私の呪力が暴走してしまっても五条さんならなんとかしてしまえるだろうということを私は知っていた。自分がどうしたって敵わない強い人に自らのすべてを預けることができてしまうというその感覚はあまりにも甘くて、癖になってしまいそうだった。
その感覚も大きかったけど、それ以上に、私が髪をほどいてもいいと思えたのは彼への気持ちだった。だって私は彼にならすべてをさらしても構わないと思えてしまった。思ってしまったのならもうその気持ちを抱いた以前には戻れない。
「私も、五条さんに、全部見てほしい」
目が潤む。私は彼の顔を見つめたままキスしたいと思った。たぶんそういう顔をしていたのだろう。少し乱暴に肩を引き寄せられてキスされる。性急な手つきがこの人にも余裕がないことを言外に伝えてくれて嬉しかった。
たくさんキスしてから額をくっつけあう。もう一度キスができてしまうような距離で、彼がささやいた。
「やっぱり俺がほどく」
彼の手が私の髪に伸びる。指の腹が頭皮をかすめるとゾクゾクするようなしびれに似た感覚が走った。見えるはずがないのに、指が髪の中をまさぐる様子を思い浮かべて思わずぎゅっと目をつむった。
髪留めの外れる音につづいて頭が軽くなる。髪が下に落ちていく解放感に近いあの感覚に私は身震いする。彼の太い指が私の髪を撫でるように梳く。指が髪の中を、頭の後ろから、肩、胸の辺りを通って腹のあたりの毛先まで手櫛でとかされるのを数度繰り返されるのどこか夢見心地でされるがままになる。そんな風に優しく髪を誰かに触れてもらうのは、とても懐かしくて気持ちよくて、幸せだった。
私はそっと目を開ける。五条さんは笑っていた。私はきっと子供みたいな顔をしていた。
「可愛いね」
ああ、そうか。私が生まれてきたことに意味があるのなら、きっとこのときのためだったのだと、本気で思った。今この瞬間になら死んでもきっと悔いはなかった。
私は泣き出しそうなまま、自らの髪を握りしめる。きっとひどい顔をしているに違いないのに彼は可愛いと繰り返すと私の体を抱き寄せてベッドへと押し倒した。もつれあうようにキスしながらせわしなく衝動のままにお互いを求めあう。距離や隙間がもどかしく、全部とけちゃえばいいと思った。とけてぐちゃぐちゃになって一緒になってしまいたい。
こういうときくらい名前で呼べよとどこか強い口調で言われて、私はその言葉通りに彼の名前を必死によんだ。その口調にどうしようもないくらいドキドキした。
髪を結ぶようになってから、呪力を制御できるようになってから、できるだけ感情を波立たせないように冷静であるようにした。その方が力を制御するには都合が良かったからだ。それなのにこの人といるとその静かであろうとする感情が荒れ狂う。冷静でなんて少しもいられない。それが最初はとても受け入れられなくて、そのうち心地よくなってしまった。感情のままにふるまっても、彼はなにも変わらないし傷つくような人ではない。それが、私にとっては、酷く、幸せだった。
素直なお前、可愛いねと囁かれると体の芯にびりびりに甘い電気が走った。もっと可愛いと思われたいような気持ちになって、あられもないような声で彼になにもかもをさらけ出してしまう。
何度も何度ものぼってどっちが上なのか下なのかわからないくらい夢中でむさぼりあった。そうして満足しあうころにはお互いどちらの体液ともつかぬものでドロドロだった。私はすでに疲れ切っていて、体どころか腕を動かすのすらもはや煩わしかったが、体力の差か五条さんは私よりもずっと平気そうに見えてすごいなと妙なところで感動してしまった。それでもさすがに五条さんも私を後ろから抱えたまま気だるいような雰囲気をしていた。
汗の滲んだ乱れた髪をなおすように梳かれる。ずうっとそうしているので、そうするのが気にいったのかもしれなかった。
私は髪を撫でられるままになっていた。疲れてぼんやりしているのに頭のどこかが冴えているような妙な感覚のなか、思いつきで小さい声で昔のことを話した。髪をきつく結ぶようになるまでの経緯や結ぶようになってからのこと、母や家の話。話ながら、私はきっとこうして誰かに話を聞いてもらいたかったんだなと気づいた。
私の話を聞き終わってから五条さんは少しの沈黙をおいてから髪を結うその行為が縛りであった可能性を指摘した。髪を結ぶという条件で呪力に制限を課す。しかもそれを毎日のように強い感情を込めて自ら行っていたのだからそうならない余地の方が少なかった。だからあれだけ制御が困難だった呪力も支配下におけたのだ。
その言葉は拍子抜けするほど腑に落ちた。たぶん私は、それをどこかで分かっていたのかもしれない。名前のためを思って縛りを課すように言ったんだと思うよと五条さんがつづけた。なんだか少しおかしかった。
「なに笑ってんの」
「五条さんが先輩ぽいこと言うから」
「どう考えても尊敬できちゃうかっこよくて強い先輩だろ」
体格差のせいか後ろから首筋に顔をうずめられるようになっていて、くすぐったさに身をよじらせると五条さんは抱える腕に力を込める。あんなに甲高い声で俺の名前ずっとよんでたくせに呼び方が戻ってるんだけどといつもの彼らしい言葉に私は力が抜けて笑ってしまう。
本当だったら髪の話も呪力と縛りの話もきっとそこんな風に、なんてことないように聞くことはできなかった。そうできたのは彼が私の髪を、縛りを、ほどいてくれたからだ。
お前はもう縛られなくても生きていけるよと彼は口にして、そうして髪を撫でている手のひらの動きが止まる。彼が何かを言いかけたのがわかった。けれど言葉の続きは私の耳にはとどかない。
倦怠感とともに訪れる強い睡魔が、私の意識を引きずり込む。口が動いたのなら、もっと撫でて欲しいと乞えたのにと、溶けていく思考のなかで思う。
あのとき彼が言いかけた言葉を私はなんとなくわかっていた。縛りを自覚した私ならその縛りを外して戦うことができるということだ。悟さんに髪をほどいてもらった私は、今までの私とは違いその髪を自らほどき呪力の制限を外し戦うという選択肢をとることができる。
深呼吸をして、私は悟さんが髪の毛に触れてくれたあの指の感覚を思いだしながら髪の毛をつかみ髪留めを外した。解放感とともに、呪力が解放される。髪の先まで呪力がみなぎっている。今ならなんだってできるような無敵感だ。それこそあの、可愛いと言ってもらえたあの瞬間のような。
任務として一緒に帳のなかに訪れた仲間は、巻き込まれていた人をつれてこの場所から離反するために走っているはずで、私はその逃げる時間を稼ぐためにだけ残っていた。髪だけにみなぎっていた呪力は、髪から全身へとめぐっていく。体は軽く、すべてが思う通りに動く全能感だけがそこにはあった。だけど現実を分かっていた。きっと私は勝てない。
目の前にいる呪霊はおそらく制限をといた私の全力ですら敵わないだろうことが一目で見てとれた。制限をとかない私では勝負どころかきっと時間すら稼げない。でも今の私なら勝てなくとも時間を稼ぐことだけならできるはずだ。そういう選択肢をとれる程度には力が近づいている。
おそらく死ぬだろうことは分かっていたが恐怖はない。悟さんが私の人生に意味を与えてくれたからだ。私にはそれだけで十分だった。だからもう何の悔いも残さず、すべてをかけて死にに行ける。こんなときだからか呪術師として死んだ母さんのことを思いだした。母さんは最期、どんな気持ちだったんだろう。考えないようにしていたことを、最期だからこそぼんやりと思った。
私も死ぬことになるけれど、死ぬと分かっていても幸せだよ。母さん、あなたが結ってくれた髪を、縛りを、といてくれた人がいたの。私に人間としての生きてきた理由を与えてくれた。だから私も呪術師として死んでいける。
私は呪霊のもとに駆けて、突っ込んでいく。不思議なほどに冷静で、恐怖はやっぱりなかった。ああ、でもやっぱりもう一度、髪をあの人に撫でて欲しかった。それだけが心残りだ。
春を待たずに笑う
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