NOVEL | ナノ

 適当につけていたテレビにうつるアニメーションが結末を迎えるのと、司くんが戻ってくるのはほとんど同じだった。深夜のニュース番組に切り替わったテレビにリモコンを向けて消す。とたんに先ほどまで流れていた音が消えて静かさだけがそこに残った。
 シャワーを浴びてラフな服装の司くんはいつもの寄せ付けないような姿よりどこか素朴な印象がある。彼はこちらへ向かうとそのまま私の隣へと腰かけた。
「なにか見たいものでもあったのかい? 見ていてよかったのに」
「ううん、ひまつぶしに見ていただけだから」
 私はそのまま彼の胸にもたれかかった。あたたかい。布越しにかたい筋肉の存在が私の体に伝わってくる。シャワーを浴びてすぐのおかげか石鹸のにおいがした。じっとこちらを見下げる彼は何を考えているのかあまりわからない、けれど穏やかな表情だ。彼はいつも私の前でそんな表情をする。そこには彼が戦うときに見せる怖い表情や激情はない。
 私と過ごすときはずっとそうだった。私は、この人は本当はとても穏やかな人なのではないかと思っている。少なくとも、私の前では、そうだった。
 太い腕が伸びてきて私の体を抱き寄せると、自分の胸へとおさめる。体格差のせいで同じようにベッドに腰かけているのに子供がしがみつくような形になるのもいつものことだった。この世界でいちばん安全なものに包み込まれている気分だ。私はされるがままに目をつむり、身を預ける。
 貫かれるといつも息が止まるような感覚におちいった。ほかのだれかとしたことがないから、こういう行為には必ずこの感覚が伴うものなのか、それとも彼としているからなのか、私にはわからない。
 大丈夫だと分かっているのに、体はその瞬間の衝撃を耐えるようにこわばる。
「名前、力を抜いて」
 言い聞かせるように優しい声だ。その声音で話されるととても優しくされているという実感がじわじわと胸を満たしてなんだか泣きそうになる。
 彼の言葉に従うために力を抜こうとしているのに体にはますます力がこもって、見えないけれど司くんが苦笑したのが空気で分かった。私の腰をその大きくて厚い手のひらが撫でるようにして触れる。あ、と思う間もなく彼のその手は私の腰をつかむとそのまま奥までおし進められた。
 体の奥の奥まで暴かれるような感覚に思わず腰が引けそうになるも私の腰は彼によってしっかりと抱かれたままなので逃げられない。衝撃ににじむ涙が頬を濡らす。伸ばされた彼の親指がその涙をぬぐった。
「……司くん」
「うん」
「司くん」
「うん?」
 縋るように呼ぶ名前に返ってくる返事が嬉しい。乞うように彼の背中にまわした腕に力を込めて引き寄せる。上にのしかかられるようにされる体勢は圧迫感があったが、それすら、それが、愛しかった。もっともっとと彼の体に縋りつけばかえってくるのは苦笑じみた笑みだ。
 そこにはどこかほほえましさすら滲んでいる。司くんが私に与えるものは穏やかで優しいものばかりだ。
「そんなに縋られたら動けないよ」
 繰り返し彼の名前を呼ぶ私の口を彼のくちびるでふさがれる。そのままゆっくりと動かれると私のために十分に配慮されている動きのはずなのにいつも耐えがたくなった。
 与えられる感覚に意識のすべてがかき消されていく。白む思考の、もはやなにも考えられないなかで、私にできることは結局彼に縋りつくことだけだった。
 こんな場面ですら彼が私に激情を見せることはない。その大きな手のひらが私に与えてくれるのは、見せてくれるのは、慈しみだけだった。
 浅く荒い自分の呼吸と体中に滲む汗の感覚が波が引くように、まともな思考とともに戻ってくる。私と彼は少しの間そうして抱き合っていた。彼の胸から伝わってくる、常よりいくらか早い鼓動に耳を澄ませる。早いと言ってもその鼓動は私のものよりずっと落ち着いていた。
 いくらかの時間そうしてから、体を起こす司くんは私から出て行く。出て行かれるその瞬間のたびに私は、結局のところ本当の意味でひとつになることなどできないのだと自覚する。あまりにも非現実的な考えであることは分かっていたけど、たぶん私はひとつになれればいいと思っていた。そうすれば今よりも寂しくはないだろう。
 寂しいと言ったらいつものように目を細めて可愛いねと言ってくれるのだろう。それが分かっていてもなんだか口に出せなかった。寂しいといったらその寂しさが重みを増すような気がしたから。
 いまだ余韻ののこる思考のなかで、私は目を閉じ、彼の腕のなかでその感覚に浸っていた。ふっと思いついたことがなぜか口をつく。
「さっき、人魚姫がやってたの……」
「人魚姫?」
「テレビで、私がみてたやつ」
「……ああ、さっきのか」
 脈絡のない話だった得心がいったように彼が頷く。首元に汗で張り付いた髪を払われると肌が空気に晒されて涼しい。身震いして彼を見た。
「アニメの、10分くらいだったかな。昔見たことがあって、懐かしかった」
 きれぎれの私の話を、司くんはじっと聞いてくれる。人魚姫をちゃんと物語として見返すのなんて、子供のころ以来だった。泡になって消えてしまう人魚姫は王子様とは結ばれない。でも私はこの話が好きだった。
 子供のころ、この話を初めて知ったとき、私はどんな気持ちになったんだっけ。好きだったはずなのに思い返してみると記憶は曖昧だ。
「悲しい話だよね」
 司くんの長い睫が瞬く。伏せられた瞳はなにかを思いだしているようにも見えた。それがなにを思いだしているのかは私は知らない。彼の口から彼自身のことを話されることはほとんど稀だった。彼はいつも私の話ばかりを聞きたがる。
 だから私は彼のその静かな表情の下にあるものがなんだったのかは聞かずに、彼の頬に手を伸ばしてそっとそのまぶたに口づけた。
「私は司くんが王子様なら人魚姫になってもいいな。司くんのためなら泡になってもいいよ」
 司くんの瞳が瞬く。頑強な体を持ちながらどこか女性的な美しさすら持つ顔立ちはそんな風にあっけにとられるとあどけなく見えた。
 見開かれた瞳がふっと緩む。その表情は今までみたことがなく思わず見つめてしまう。きっとそのまま見つめていたかったのに、なぜか体を強く抱き抱え込まれてしまい見続けるのは困難だった。からだ越しに司くんの体の震えが伝わってくる。びっくりしたものの笑っているのだと気づいた。自分の頬が熱を持つのがわかる。私が司くんとは違う意味で震えそうになっていることがわかったのか司くんはますますやわらかな表情になった。
「馬鹿にしたわけじゃないよ、随分情熱的だと思っただけだ」
 その声の響きは優しかったけどますます恥ずかしくなってきた。
 腕の中でそっぽを向こうとするも完全に抱き込まれているのでそれも難しい。仕方なく首だけを違う方向に向けた。司くんが宥めるように私の髪を優しく撫でる。
「拗ねないで」
 絆されたくなるからそんな声で言わないでほしい。あっさりと陥落した私が司くんの方を見ると、司くんは真面目な顔をしてじっとこちらを見つめていた。
「俺が君を泡にはさせないよ」
「……ふふふ」
「君も笑っているじゃないか」
 どちらからともなく結局ふたりで笑ってしまった。私は甘えるように彼の首に縋りつく。
 愛しくてしょうがなくて、そう言ってもらえたことが嬉しくて、ちょっとだけ泣きそうになる。目が潤むのを感じながら、司くんに髪を撫でられるままに目を閉じる。
 ほんとうはなってもいいなじゃなかった、なりたかったのだ。司くんのためにすべてをあげられる存在になってみたかった。
 獅子王司という人間ははたから見ればなんだって持って居るはずなのにいつも寂しそうだった。それが不思議で、見ていると私まで切ないような気持ちになった。だから好きになった。一緒にいたいと思った。
 一緒にいるうちに彼がどうしてそんなふうに見えるのを、人より知って余計にそばにいたいと思った。抱きしめたいと思った。守ってあげたいと思った。抱いたことのない、恐らくこれ以上を抱くこともきっとない強い感情のすべてを抱いた。
 もうこれ以上誰も彼から奪わないでほしくて、世界が彼に優しくないなら私がそれ以上に優しくしたくて、彼が奪われたぶんだけ私が与えてあげたいと思った。愛していた。
 見つめ合った記憶より横顔を覚えているのは、私が彼の横顔ばかり見ていたからだ。見つめ合ったことが少なかったわけじゃない。私がその横顔に思い入れがあったからだと思う。初めて好きだと思ったのも心惹かれたのも彼の寂しそうな横顔を見たときだったから。
 どうしてこんなときにこんなこと思いだすんだろう。走馬燈みたいだ。私の人生のなかで一番悔いが残っていたから? 世界を覆った緑のあの光に包まれながらそんなことを思う。
 何が起こったのかを把握できないまま、繰り返し繰り返しただ一人のひとのことを考えた。司くんのことだけを考えていた。司くんはいまどうなっているんだろう、自分の身に起きたこと以上にそれを思うのが怖かった。だから考えないように、思い出だけを頭の中で繰り返した。
 繰り返す記憶のなかで私の意思はしだいに摩耗していき、ついには完全に擦り消えていく。どれだけの時間を彼を思ってそうしていたのか、そこから私の意識が消えてからどれだけたったのか、なにも分からないままに、私はその時を迎える。
 暗闇にとざされていた世界にひびが入り、まばゆいばかりのその光に目をこらすとそこには夢にまで見た人がそこにいた。
「泡にはさせないっていっただろう」
 なにも分からない。どれだけの期間を経ての再会だったのか、そもそも世界がどうなってしまったのか、私がどうなっていたのか。それでも目の前には彼がいる。それで、十分だ。
 ずっと司くんに会いたかった。司くんは大丈夫だった、ケガとかしてない? なにを言おうか迷い、でもたぶんこうして会えたから、きっと言葉はなんだってよかった。結局ひとことだけ口にして彼の胸に飛び込む。
「ただいま」

果てにある最愛

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