喉の奥が引攣るような感覚とともに獣のような声が聞こえて、私ははっと目を開けた。薄暗い部屋の中の唯一の明かりで、こちらを見下ろす彼の顔が見える。息は全力疾走のあとのように荒くて苦しい。背中や首すじがじっとりと湿っていて熱かった。
マイルームだ、と、認識して目をこする。 そこで手のひらが震えていることに気づいた。あ、と思わず手のひらに目をやる。震えているのは手のひらだけでなく体ごとだった。
「マスター」
「……あ、?」
まともに言葉がでない。掠れている自分の声にさきほど聞き取れたあの獣のような声は自分のものだということに考えがいたった。震えたまま彼を見上げると、手のひらで頬を撫でられる。彼の手は冷たく渇いている。違う。私の頬が熱くて湿っているのだ。涙なのか汗なのか分からない液体でぐしゃぐしゃになった頬を彼は優しく触れる。首筋に張り付いた髪の毛をその優しい動作のまま払われて、そのまま抱き寄せられた。
自分の心臓がどくどくと大きな音をたてている。涙がとまる様子もなくこぼれていた。口から零れるのは嗚咽ばかりで言葉が出てこない。しゃくりあげていると、頭を撫でられる。よしよしと子供にするように、あやすように。寛容を多大に含んだその動作に私は彼の胸に額を寄せた。まるで本当に自分が子供でいるようだった。子供のように甘えることを許されているみたいだった。
「マスター」
なだめるために投げかけられた私を呼称するに名に私はぼんやりと彼を見上げる。私の求めるものが分かったのか、彼は笑みの形に唇を曲げるとそっと囁く。
「名前」
「うん」
返ってきた名前に私は彼の胸にしがみついた。もっともっととねだるようにくっつく。そのおねだりに彼は毒のような中毒性と蜜のように甘い声で応えて見せる。繰り返して呼ばれる名に自然と吐息が漏れた。
背中をぽんぽんと叩かれるその振動が心地よくてぎゅうっと目をつむる。体のこわばりがほどけて、まるまるようになっていた足先から力が抜けた。体が平静に戻っていくのが分かって、それでもぐずるように彼の名前を呼んだ。そんな私に呆れることもなく、彼は私の額へと口づける。肌を滑る彼の唇の感覚が心地いい。今度はくすぐったさで身を震わせると、それを感じ取ったのか彼は私の私の頬に舌を這わせた。ひっと息をのんで彼の腕にしがみつく。肉厚の舌が、眦にとどまっていた涙をなめとった。
「……しょっぱくない?」
「んー?」
あ、と舌を出される。ああと思うその瞬間に今度は唇を奪われた。力の抜けた舌をなぞられる。自分で確認しろということなのだろうがもちろん味なんてわかるわけもない。
「どうだ? わかった?」
「わかんないよお」
「じゃあもう一回だな」
ふれた唇のなかくすぐるように舌がうごめく。そのうち味なんていう大分名義なんて忘れて、私からも舌を出して絡ませた。そうやって繰り返し口づけていると体から力が抜けてふにゃふにゃになった。そうしながら彼の胸にもたれかかるようにする。彼の唇がやがて私の首筋へとすべっていく。されるがままそうしているとそのままあごの下を撫でられた。なんともいえないその感触に私は目を細めて彼を見上げる。
こちらを見下ろす彼は、私のそんな視線を受け止めるとほほ笑んだ。満足げな表情に見えた。
「可愛い顔をするもんだな」
どこかうっとりとした響きがそこにはある。汗が引いてきたためかどこか冷えてきた指先を握られて、その手に口づけられた。今度は彼の体温の方が熱く感じる。彼のその名に私は心の中でそっと呼ぶ。私のサーヴァント、私のアサシン。―――私の燕青。
赤い舌が指の間をなぞる。甘噛みされるとぞくぞくした。
「冷えてきてるなあ。冷たい」
「くすぐったい」
「俺は楽しいけどね」
「……私もちょっと楽しい」
その言葉に少し強く噛まれた。多分あとになる。朝が来る頃には消える位の。残れば困ることは分かり切っているのに、それが惜しくてたまらない。
「お願いだからずっとそばにいてね」
一人で過ごすにはあまりにも長い夜は、一人でも過ごしてきたはずのその時間は、すでに彼がいなければ乗り越えられないものへと変貌していた。良くないことだとは分かっている。それでも私は彼に縋ることを辞められない。
「我がマスターは随分と心配性なことだなあ」
「うん」
「こんな俺がいないと駄目なマスターを放って俺がどこに行くって言うんだか」
手に刻まれている彼をつなぎとめるための赤い徴に一瞬だけ彼は視線を落とす。そうして私に唇を重ねるとそのままベッドに押し倒した。令呪がある方の手を指を絡めるようにして握りしめられる。
「もしこれがなくなったって、俺はあんたのそばにいるよ」
「うん」
涙声になりそうだった。昔はこんなことで泣いたりしなかったのに、この人の前だとどうにも駄目だ。耐えてこれたはずのことに我慢ができなくなる。それが彼になら許してもらえると知ってしまったからなおのことだ。
好きだと思う。失いたくない。考えるだけで泣きそうになる。私が泣きそうになったのが分かったのか、彼は苦笑した。
「……駄目になりそう」
「俺がいないと駄目なあんたは可愛いからそれでいいよ」
「責任とってくれる?」
「ああ、だからもっと駄目になってくれ」
もう一度触れるだけのキスをした。このまま時が止まればいいのにと、何度となく繰り返し思ったことを祈る。夜はまだ、明けなくていい。
えいえん分の毒を飲み干す
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