NOVEL | ナノ

 傷つけたいと思ったことなど一度もない。ただ、俺の言葉で簡単に傷ついたり振り回されたりする彼女のことを思うとどこかで気分がいいと思ったのは本当だった。自分より年上のくせに余裕がなくて鈍くてバカで、でもそういう部分も可愛くて他の男の前でも当然にそういうしぐさをしているのかと思うと腹が立った。俺のことだけ見て俺の隣でずっと笑ってればいいのにと思った。
 俺のほうがよっぽど幸せにできるのに、俺の方を向かない彼女が、嫌いだった。嘘だ。面白くなくても、ムカついても、それでも俺が名前を嫌いだと思ったことなんて一度だってない。名前にそんな気がないことは分かっていても俺だけがずっと彼女を好きだった。
 しゃくりあげるような声はか細く、てのひらが顔を覆い隠すようにしているせいで名前の顔は見えない。うつむきがちにそうしているせいで髪が流れて首筋がむき出しになっていた。見慣れない白い肌がさらされている。見てはいけないようものを見た気がして、そういう風に感じたことが後ろめたくごまかすようにその部位に触れた。わざとくすぐるようにすると彼女が小さくうめく。天馬くん、と彼女が小さくつぶやいた。
「泣き疲れねえ?」
「……ごめんね」
「別に謝れとはいってないだろ。無理して泣き止まなくていいけど、別に」
「うん」
 ぼんやりとした呆けた声は覇気がない。もともと覇気にあふれているような女でもないけど、それでもこんな声を出していたことはない。彼女がこうして俺の前で泣いたのは初めてだった。名前が俺の前で弱みをさらしたことはないのだ。彼女はいつだって俺の前では大人であろうとしていた。どんくさいくせに、抜けてるくせに、俺を頼ったことなど一度もない。大丈夫だよと困った顔で笑うたび、そこには明確な線引あった。ずっとそれがどうしようもなくもどかしかった。
 二人きりの空間で、名前のつく深いため息はより重く響く。俺のどんな慰めの言葉も、彼女の心にはきっと届いてはいなかった。俺ではない場所を見ながら名前はうなだれる。けしてこちらを向こうとしない。そう思った瞬間にはもう言葉がのどをついてでた。
「なあ」
「うん」
「好きだ」
 突如として放られた言葉に名前がぽかんとした表情をする。それから困ったような顔で首を傾げた。涙で濡れた目じりが赤く腫れている。泣き始めてようやく俺に正面から向きなおったその顔は化粧が崩れていてお世辞にも綺麗といえるものではない。なのにどうしてこんなにも愛しいのだろう。どうしてこんなにも胸が痛くなるのだろう。
「あんたが好きなんだよ」
 心もとなげに自分自身で握り結ばれていたその手を、手を伸ばして握りしめる。ほっそりした手首はどれくらいの力で握りしめていたのか赤くなっていた。ずっとこうして触れたいと思っていた。てのひらを開かせてぎゅっと握りしめる。今度はそんな跡がつかないように包むようにする。彼女の手は俺のものより小さくやわらかかった。
 思っていた以上に彼女にふれることに動揺はしなかった。どこかで冷静な自分がいた。ただ愛しさとか、そういう感情がそこにあった。馬鹿だなとかもっとうまくやればいいのにとか、思うことはいろいろあって、それでも彼女に思うことは結局そうなのだ。認めるのは癪でも好きになった方が負けとはその通りなのだろう。本当に振り回されているのはいつだって俺の方だった。
「天馬くん」
「何にもいわなくていい。どうせ勘違いとか私じゃ駄目とかそういうこと言おうとしてるだろ」
「……」
「聞きたいのはそういうのじゃない」
「……天馬くん」
「頼むからそういう言葉で俺の気持ちなかったことにすんなよ」
 握りしめた手のひらがそっと握り返される。それだけで随分許された気になって、知らず知らずのうちに息がもれた。
「あんたに時間が必要なら俺はそれを待つから」
 待てっていうならいくらでも待って構わない。俺をちゃんと見てくれるなら、そんなこといくらでもしてやる。あんたが俺を少しでも考えてくれるならきっと何をしたっていいのに、その気持ちをどう伝えればいいのか分からない。
 ただ愛しくて、振り向いてほしくて、頼ってほしくて、―――俺を好きだと言ってほしくて、それは好きという言葉以外のなにで伝えればいいのだろう。
「そんなに優しいこと言うの、良くないよ」
「……」
「そんな、そんなに、優しいこと」
 顔をぐしゃぐしゃに歪めて、彼女はそう言う。しゃくりあげるような声に再びその頬を涙が零れ落ちて、俺はその体を抱き寄せた。抵抗はない。俺に抱きしめられて、名前は子供のように震えていた。
「好きなんだから、優しくしたいに決まってるだろ」
 ひときわ名前の体が大きく震える。泣き出してしまった彼女の体は、てのひらと同様で俺よりもずっと小さい。俺がそうしようと思えば力でどうにかできそうだった。縋るように俺の体に抱かれたままでいる名前に一瞬変なことを考えそうになって思わず眉を寄せる。
 あえぐような微かな声で、彼女が俺ではない男の名前を呼ぶ。そいつにもこうやってすがったのかと思うと指先が言葉にならない感情で震えた。俺よりも先に出会っているのだから、仕方ない。いや仕方ないと納得しなければならないというのが分かっているだけで納得なんてできてたまるか。
 ぐるぐる考えている俺をよそに、名前がありがとうとつぶやく。俺にだけ向けられた言葉が照れくさくて誤魔化すようにおうと答える。たった一言なのに、もうそれでいいかもしれないと思わされて思わず嘆息した。けして嫌だとは思えなかったが。

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