傷 | ナノ

 俺の顔にそえられた白いてのひらはやわらかかった。やけどのあとを慈しむようになぞるその手はびっくりするくらい小さくてあたたかい。彼女はじっとこちらを見つめていた。俺はそれだけで彼女が何を考えているのか、何をしようとしているのかが分かった。
 だから押しとどめるようにその手を握りしめる。
「いいんだ」
 俺のその言葉に、彼女は叱られた子供のような顔をした。手を離そうとしているのが分かって、俺は握るその手に込める力を強めた。もっと触れていてほしかった。ふれられたところからつたわってくるあたたかさが心地よかった。
「……ほんとにいいの?」
「うん」
「だってまだ痛むんでしょう?」
 俺はその言葉にくびをふって答えた。俺が意見を変えないことが分かったのだろう、そのかたくなさに彼女がまゆをさげる。
 俺が受け入れれば彼女は本当にそうしただろう。そういう確信があった。もう大丈夫、痛くないよと笑うのだろう。だからこそ、それだけで十分だった。俺の傷がほしいと彼女がそういってくれただけで、俺には。
 本当に痛むのはやけどのあとじゃない。この胸の中だ。だけど彼女がそばにいて、こうして触れてくれるのなら、俺はもう痛みにあえぐことはないのだ。

「おかえりなさい」
「ただいま」
 飛びあがるように出迎えた私に轟くんはそうして当然というように腕を広げるので、笑いながらその腕に飛び込み、私たちはしばし玄関で抱きしめあう。こうして触れ合うのも、そもそも直接会うのすら久しぶりだった。だから余計に彼を抱きしめる腕に力がこもる。もう離さないというようにしっかりと抱きついた私だったけれど、轟くんはそれ以上にぎゅってしてくる。手加減されているだろうけどちょっと痛い。
 そんな思いをこめてたしなめるように彼の背をたたくと、腕が外される。離れる体に寂しさを覚えたのも束の間でそのままキスをされた。さっきの抱擁のように熱烈なものだった。
 そういう意味で促したわけではないと逃げようとした私の腕力など彼にかなうわけもなくて(そもそも本気で逃げようとしているわけでもなく)もう仕方ないなあという気持ちになり私はそのくちづけを流されるように受け入れた。焦凍くんは私をそういう気持ちにさせるのが上手だ。
「……満足した?」
 息も絶え絶えの私に、とり乱す様子もない轟くんはしたと言いながら名残惜しいというように私の体をもう一度抱きしめる。
「お仕事、お疲れさま」
 抱きしめられるまま、彼の背をいたわるように撫でた。目をつむり、力を抜いて彼に体を預ける。轟くんの胸の中は当然彼のにおいがして私は気が抜けたように深く、息を、吐いた。
「うまかった。ありがとうな」
 食卓に出した料理をすべて綺麗にたいらげてそういっててくれた轟くんにほっとする。何度となくこうしたことで轟くんの味の好みも分かっているつもりだったけれどそれでも本人から美味しいと言ってもらえるとやはり安心する。なにせこれが唯一の目に見えて彼に報いることができることだったから。
 もともと持て余してしぎみの時間の中で、目に見えて結果がでるうえに轟くんの役にも立てる。料理は最も適した時間の使い方だった。
「デザートもあるよ。今食べる? お風呂あがったら食べる?」
「デザート?」
「うん。最近は難しいやつにも挑戦してる」
「最初は失敗する方が多かったのにすごいな」
 思わず胸をはると轟くんは頬をゆるめて私の頭を撫でた。子供にするようなしぐさだ。撫でられるのは気持ちいい。こうやって褒めてくれるから私はもっと頑張りたいと思ってしまう。
 轟くんはどうするか少し迷ってから、あとで食べることにすると言った。じゃあ次はお風呂だ。
「一緒に入るか?」
「ゆっくり入ってきてください」
 半分本気だったのかもしれない、少し名残惜し気な様子を見せる轟くんをお風呂に送りだして食器を片付ける。といっても轟くんの分だけなのですぐに終わってしまう。そうして作っておいたチョコレートのケーキを冷蔵庫から出し轟くんがお風呂を出たあとに食べられるようケーキを切りわけ皿にのせた。
 ダイニングではなくリビングのテーブルに飲み物と一緒に運び、先にソファーへ座る。そういえばと、昨日撮っておいた番組を確認するためにリモコンでビデオを再生した。テレビにうつる番組はヒーローに関するもので轟くんが出演していたはずだった。まだ出番は来ないようで、他のヒーローが画面の中で話している。聞きながしながらぼんやりと見ていると、突如として私の隣に影が差した。お風呂からあがったらしい首にタオルをかけた轟くんだった。
 私の隣に座った轟くんの髪はかすかに濡れている。仕方ないなあとタオルを手に取って代わりに拭いてあげる。いつもそうなのだ。もしかしなくても味を占めているのではと思うものの素直にされるがままの轟くんは可愛い。そうして髪の毛を拭き終わると轟くんはグラスに手を伸ばし、お皿に乗ったケーキを一瞥した。
「食べていいのか」
「轟くんのためのケーキだもん、好きなだけいいよ。まだたくさんあるからね」
 といっても轟くんはそんなに食べるわけではないことも分かっていた。轟くんは甘いものが平気だけど好きなわけでもないからだ。たぶん、私が作ったから食べてくれるのだ。
 ケーキにフォークを刺して、一口目をほおばった轟くんがうまいと口にするので私はやはりほっとして、テレビに視線を戻した。テレビは何人目かのヒーローについてをうつしていたがついに、轟くんを流しだした。
「名前は食べないのか」
「うん。味見でお腹いっぱいになっちゃった」
「そうか」
 そうして話していると司会の女性の声が目に見えて明るくなるのが耳に届いて、テレビに視線を戻した。ここ最近の活躍をまとめた映像に食い入るように見つめる。他でも確認した映像がほとんどで目新しいものはなかったけれど、何度見つめても飽きない。これも保存しておこうかなと夢中になっているとくちびるにやわらかく甘いものが押し当てられた。
 びっくりして轟くんの方を見る。フォークに刺されたケーキがくちに差しだされていた。促されるようにくちびるに添えられてそのままくちをあける。あけた口の中にケーキがさしこまれ濃厚なチョコレートの味が広がった。
「本物がそばにいるのにわざわざ今見なくてもいいだろ」
 「ほら」ともう一度くちに運ばれるケーキに思わず頬がほころんだ。自画自賛になるけど美味しかった。でも、轟くんのためにつくったのだからそうでなければ困る。
 テレビの向こうで歓声をあびていたヒーローはいまここに恋人として私にケーキを食べさせている。贅沢なその事実を思うとどこか夢を見ているような気持ちになった。
 轟くんによってリモコンが操作される。電源が落とされ、液晶の画面には暗闇が落ちた。
「抱きたい」
 大好きな恋人にそうささやかれ、私は何も言わずに頷き、轟くんの落とすくちづけを受け入れる。少しだけ性急なくちづけに、求めていたのは、寂しかったのは、足りなかったのは私だけではないのだと感じて嬉しかった。ベッドの上でくちづけないところなど存在しないように体の隅々までキスをして轟くんは私を抱く。丁寧に暴かれていく体は、乱暴に触れられるよりよほど支配されるようで、時々私に取り返しがつかないようなことをしている思いを抱かせる。
 胸の中に閉じ込めるようにして抱き締められると、これ以上安心できる場所はないはずなのに余計にそんな思いがよぎった。
「なに考えてるんだ? 」
 轟くんが、そっと私の顔を撫でる。見なくてもわかる、その部位は傷がある場所だった。轟くんは私の傷にやさしく口づけるのが好きだ。
 私が顔に傷を負ったのは数年前のことである。完全な事故だった。誰に責任があることでもないはずだった。だけど私に轟くんは責任をとりたいと言った。その言葉通り彼は私に仕事をやめさせると自分の家に引きとり、こういう形におさめてしまった。
 轟くんは私の顔の傷についてまったく気にしていない。というより、傷ができる前よりもこうなってからの方が幸せそうだった。私はそこにいるだけでいいのだそうだ。
 だから私は家にいる。家で彼の帰りを待つだけの生活をしている。私が外に出かけると不安だというからもう外にあまり出ることもなくなった。
 まだ結婚はしていない。だけどこのままいけばきっと私は轟くんと結婚するのだろう。現状に不満も不安もない。そうなる原因はすべて轟くんがどうにかしてくれる。
「……幸せだなって思ったの」
「そうか」
 私の『個性』を轟くんは知っている。轟くんは一度、私にこの傷を俺にうつすかと問いかけたことがある。私はそれに首を横に振ってこたえた。昔、轟くんが私にしたように。
「俺も幸せだ」
 私はその答えにうなづいた。彼にとっての幸せこそが、私にとっての幸せだったから。
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