バレンタインデーに跡部様にチョコを渡せば、ホワイトデーには3倍返しになる。そんな噂を聞きつけた私は、どうして今までその話を耳に入れなかったのかと後悔した。あのお金持ちの跡部くんのことだ。海外の有名なパティシエのチョコレートを取り寄せるのだって容易なはずだ。欲しい。何でもいいから海外の高いチョコを食べたい。この際高いのであれば、ゴ〇ィバでもいい。例の噂を知らずに2年を無駄にした私は、今年こそと張り切って跡部くんに渡すためのチョコを買いに行った。
跡部くん用と友達に配る用のチョコをそれぞれ買ったあとデパートをうろついていると見知った後ろ姿を見つけた。近づいて声をかけると、振り返った宍戸は一瞬驚いた顔をしたあと気恥ずかしそうに目を逸らした。
「何だお前かよ」
「クラスメイトに向かって何だとは何よ。ひとりで何してんの?」
「あー、14日が長太郎の誕生日だからプレゼントを買いにな」
「ああ、鳳くんの。バレンタインのチョコでも見に来てるのかと思った」
「はあ!?」
ごめんごめん、宍戸は貰う専門だもんね、と笑うと余計に怒り出した。からかいがいのある奴だ。実際跡部くんや忍足くんにからかわれている彼をよく見かける。そうやって怒るからみんな面白がるのに。落ち着いた宍戸が私の手にある袋の中を覗き込んで顔を引き攣らせた。
「こんなに買い込んでどうするんだよ」
「全部友チョコ。当日宍戸にもあげるね」
「おーサンキュ」
「あ、そうだ。宍戸に聞きたいことがあってさ。跡部くんにチョコあげると3倍返しになるってホント?」
そう聞くと宍戸は顔を顰めた。さっきから表情がころころ変わって顔が忙しそうだ。宍戸が本当らしいな、と言うので心の中でニンマリした。海外のチョコが本当に手に入るらしい。詳しく話を聞くと、毎年チョコの数がとんでもないことになるので、空き教室を丸々貸し切り女の子たちはそこにあるダンボールにチョコを入れて行くらしいのだが、ホワイトデーが卒業式後になるため、3年生はチョコと一緒に名前と住所が書かれた紙を一緒に入れるのが決まりらしい。わざわざお返しを郵送してくれるとは、何とも律儀な人だ。
「へー、良いこと聞いたわ。ありがとう」
「神崎も跡部にやるのか?」
「お返し目当てでね」
「おまっ、激ダサだな…どうなっても俺は知らねえぞ」
「え?」
「いや、何でもねぇ。じゃあ来月のホワイトデー、頑張れよ」
手を振って去る宍戸の背を見て首をかしげる。何でバレンタインデーじゃなくてホワイトデーなんだろう。
バレンタインデー当日。友達に教えてもらった教室へ向かうと廊下まで女子で溢れていた。相変わらず跡部くんはすごい人気だ。みんなちゃんと律儀に列を作っていたので最後尾に並ぶ。どうやら私が最後だったようだ。やっと教室に入って他の女子がいなくなった後、ダンボールの中にチョコを入れる。邪心が混ざっててごめんなさい。でもお返し期待してます。そう心の中で祈りながら手を合わせると背後で足音がした。
「お前で最後か?」
聞き覚えのある声に振り返ると、跡部くんが教室に入って来たところだった。自分から声をかけたくせに跡部くんは私の顔を見て驚いているようだった。
「まさか、お前がここにいるとはな...」
「あれ?私のこと知ってたの?」
「神崎凪沙、ジローや宍戸と同じクラスだろ」
びっくりした。まともに会話したのは今が初めてなのに、まさか名前まで覚えられているとは思わなかった。少しだけどきっとしたが、そういえば彼は全校生徒の名前を覚えてるという話を聞いたことがあるのを思い出して慌てて首を振った。
「あーん?違うのか?」
「えっ?あ、いや合ってるよ。名前知ってるとは思わなくて」
「俺は生徒会長だ。全校生徒の名前くらい知ってる」
ですよね。少しだけ期待した私が馬鹿でした。いや、期待なんてしてないけれども。跡部くんはゆっくりと歩いて私の目の前で止まった。そしてそっと私の左頬をなぞるように触れた。
「だが、お前は特別だぜ」
ホワイトデー楽しみにしてろ。そう言い残して跡部くんは教室を出て行った。
「な、何、あれ......」
立っていられなくなった私は、へなへなと床に座り込んだ。頬を触った時の彼の妖艶な笑みを思い出して、全身が大きく脈を打つ。何て恐ろしい15歳なんだ。
そして来たるホワイトデー。もう卒業式を迎えたため学校に行くことはない。跡部くんに会うこともない。そう言えば、どうやってお返しが届けられるのか聞き忘れてしまった。宍戸にでも聞こうとメール画面を開いた瞬間、来客を知らせるチャイムが鳴った。はーい、と返事をしながら玄関のドアを開けると、目の前が真っ赤になり花の香りが玄関に広がった。
「な、何?薔薇…?」
「ああ、返しにきてやったぜ。10倍返しでな」
薔薇の花束の向こう側には跡部くんがいた。閑静な住宅街にはあまりにも不釣り合いな黒いタキシードを着た彼は花束を私に押し付けると、ポケットから四角い小さな箱を取り出して静かに跪いた。
「俺が18になるまで待ってろ。これは、それまでお前を繋いでおくための鎖だ」
箱の中にはダイヤモンドが埋め込まれたシルバーの指輪が入っていた。ホワイトデーには3倍返しにしてくれると聞いていたのに、これは10倍返しでも足りないんじゃないんだろうか。私が口をあんぐりと開けているのを見て小さく吹き出した彼はすっと立ち上がると私の左手をとり薬指に指輪を嵌めた。何故かサイズがぴったりのそれに段々と申し訳なくなってあの、と声を掛けようとすると細く長い指で唇を抑えられた。
「宍戸から聞かなくても、お前が軽い気持ちで俺にチョコを渡したことなんざ初めから分かってた。......でもチャンスだと思った。見てるだけでいいと思ってた俺にきっかけを与えたのは神崎、お前だからな」
「あ、跡部くん......」
「心配しなくてもすぐに俺様に惚れさせてやるぜ。楽しみにしてな」
そう言ってくしゃりと私の頭を撫でた跡部くんの笑顔が、さっきまでの真剣なものとは真逆の年相応の表情で、その顔を見た瞬間私の胸がきゅんとしたのが分かった。誤魔化す様に腕に力を込めたら、胸元で抱いていた花束が揺れて薔薇の香りが広がった。
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