できるだけ、控えめに。極限まで、音を抑えて。
そうして吹き続けていたフルートから、デュースはそっと唇を離した。
太陽はとっくの昔に傾ききってしまって、今は空を区切る裏庭の壁の向こうへ。
それでも夕闇はまだ薄く、いつしか隣で眠ってしまったエースの顔ははっきりと見える。
それほど寒い季節じゃなくて、よかった。
羨ましいほどに長い睫毛を伏せ、規則正しい呼吸に優しく上下するエースの肩を見つめながら、デュースはそっと息をついた。
あと少しだけなら――夜の帳が完全に落ち切ってしまうまでならまだ、エースを独り占めできるから。
例えば、終わりなんて見えそうもないこの戦いを、続けることに少しだけ疲れてしまった時。
傷つけてしまったことに傷ついて、心が冷え切ってしまいそうな時。
脅かされる己の生、その反面、別の誰かの生を奪ったその両手を見つめて、デュースは思う。
今回も、無事に帰ってくることができた。でも、次はわからない。
朱雀の人間として、魔導院の候補生として、そんなことを考えてしまうのは決して正しいことじゃない。
自分の居場所はここにしかないのだし、ましてや世界はもっと恐ろしく大きな流れの中にあって、自分一人の感情なんてちっぽけなものには覆されるはずもないのだから。
けれども。
むりやり、笑わせた声。
こぼれ落ちることを止められなかった、微かなため息。
心の震えが伝わる、フルートの音色。
そんないろいろに表れるデュースの心の綻びを、エースだけが耳聡く聞き取ってしまうのだ。
何も言わず、ただデュースに寄り添って。しかしその瞳は、何かを訴えるように張りつめていて、そして時折切なげに揺らぐ。
側にいるよ。いつでも、どこにいても。
言葉にも――声にもならないデュースのその叫びが、僕にはきちんと聞こえてる。
そう、教えてくれるように。
今日も、そうだった。
二日間に渡って遂行された作戦。敵も味方も、たくさん死んだ。
奪わなければならなかった命、流される必要がなかったかも知れない血、それらをくぐり抜けて還ってきたデュースの心は、重く沈んでいた。
一人になりたくて、忍び込んだ教室の裏庭。空を見上げた視界に、ひっそりと映りこんだのはエースだった。
隣どうし、何も言わずにただベンチに座って、一緒に空を眺めていた。触れそうなほど近くにある肩から伝わるほのかな体温が、その優しさが、とてつもなくうれしくて。そしてなぜか――同じくらい苦しくて、切なかった。
目に見えてどんどん暗くなっていくあたりの景色をぼんやりと見つめながら、デュースは思い出していた。
歌が上手な人は、耳もいい。歌を歌うには、音を正確に聞き取って自分のものにしなければならないし、自分の声が楽譜どおりの音階を乗せて発せられているかを、きちんと確かめなければならない。
まわりの音をひろうのと同時に、自分の内側の音にも耳を傾けて。そうして、少なくとも二つの音を一緒に聞き分けなければならないのだから、歌を上手に歌うには耳がよくなければならない。
その理論が正しいのなら、エースはとてもいい耳を持っているということになる。
エースの歌う声よりも美しい歌声を、デュースは聞いたことがなかったから。
「……だから、なのでしょうか」
深く眠ったままのエースに、デュースはこっそり訊ねた。
「だからエースさんは、わたしの声を聞きとることができるんですか?」
でも、耳がいい人は他にもいるはず。歌が上手かはともかくとして、戦いの場に身を置く者なら誰でも、それなりに耳は鋭いはずなのに。
「どうして、エースさんだけ……?」
答えは、当然ない。それを求めることも、自分には許されていないのだとデュースは苦く肩をすくめた。
なぜなら、自分から確かめることも、想いを伝えることも、デュースは未だ試すことすらしていないのだから。
でも、それはエースさんも一緒でしょう?
デュースは、横ざまにエースを覗きこんで、淡い笑みを唇に滲ませた。
声にできないエースさんの気持ち、わたしにだってきちんと聞こえてるんですからね。
遠くから聞こえてくる帰寮を促す鐘の音と、もうほとんど出ている『もしかしたら』の答えに、デュースの身体は衝き動かされる。
臆病でずるいのは、お互い様。だから、眠っているエースにこんなことをしてもきっと、エースは許してくれる。
ベンチにもたれて眠るエースの、少し傾いで顕になったその耳元。
薄青い闇に溶け込むそこに、デュースは引き寄せられるように近づいて。
「できるだけ、早く話してくださいね。そうしたら、わたしも……」
必ず、思いきり、エースさんの気持ちに応えますから。
小さな囁きとともに、流し込むのは静かな誘惑。
掠めるようにあえかなそれでも、その毒がしっかりとエースの心と身体にまわるようにと祈りを込めて。
デュースは、そっとエースの耳にくちづけた。