未だ続く宴席の賑々しさを背負い、彼は歩いていた。
しかしそれも、次第に高く響きだす自らの足音に飲まれ、やがて消える。
足音だけを――否、抑えようもない心臓の鼓動を感じながら、彼は歩き続ける。
高鳴るそれは、歓喜のためか。それとも、畏怖の念がそうさせているのか。
大いなる存在の手足となり、世界を動かす歯車の一つとなりうることの。
ヒトでありながら、同じヒトの命運をあたかも高みから見下ろすような真似をするということ、その罪への。
廊下は誰の気配もなく、行く先は暗がりに飲まれてどこまでも続くようにも思える。
どこまでもどこまでも限りなく、果てのない暗い道。
それはあたかも、自らが歩んできたこれまでとこれからの人生をそのまま表しているようだった。
今ならまだ、引き返せる。と、誰かが囁く声が聞こえる。
その声に、彼は小さく笑みを浮かべてかぶりを振った。
これは、自らが選び取った道。あの手をとった四十年前から、己の行く先は決している。
そこに何が待ち受けていようとも、私は歩き続けることを望んでいるのだ、と。
初めて見えた時から、闇を纏うのが上手な人だとカリヤは思っていた。
自分の前に姿を現す時はいつでも、彼女は闇を従えていた。
しかしそれは、例えば隠密行動を生業とするような者たちとは明らかに違っていた。予めそこに在る闇の中に身を潜めるのではなく、その闇さえも自らが生み出しているような。
「……光は、闇在りきのものなのでしょうか」
ひっそりと零れ落ちた問いに、彼女は微笑んだ。
「どうかしら」
一見柔和に細められた彼女の瞳に浮かぶのは、肯定とも否定とも取れる色。確かめようと目を凝らすカリヤをからかうように、緩やかな紫煙の流れがそれを遠ざけた。
「光が正しいこととは限らないし、闇こそが物事の本質を担うこともある」
どちらにしろ、と彼女は続けた。
「そんなものは、ほんの些細なことよ。なぜなら……」
唇が触れそうなほど近く、その囁きはカリヤの耳元で発せられた。
「神の意思は、そのすべてが是であるのだから」
光も闇も、表裏一体。『光と闇』などというものすら、所詮はヒトである身の身勝手な概念に過ぎない。
どんなに疑い、あるいは肯ったとしても、神なる存在の思惑に沿っているだけのことなのだ。
産み落とされ、生かされ、そして死んでいく。その道筋を、自ら選び辿っているという幻想を抱く、ちっぽけなヒトという存在は。
「私があなたの手を取る――これも神の意思だと?」
彼女を振り返りながら、カリヤは問うた。暗に、神そのものであるのかと訊ねたつもりだった。すべての理を司る者、来し方と行く先を見通せる者、彼女がそう呼べる存在なのかどうか、と。
「……あなたが、そう望むのであれば」
闇の中に溶け込む赤い唇が、ゆったりと弧を描く。切りこめば、そよ風のようにさらりとかわす。いつの問答でも、決まって彼女はその姿勢を崩すことはない。その度に、カリヤの胸に湧き上がる想いがある。焦燥、渇望、悔恨――それが何を意味するのか、カリヤの中で答えはすでに出ていた。
「あなたが、神であるのか否か……それこそ、どちらでもよいのです」
振り払われるよりも前に――彼女がそうしようとしたかどうかも定かではなかったが――、カリヤは彼女の白い手を取った。煙管が床に落ちる音が、からんと乾いた音をたてた。冷たくもあたたかくもない手だった。その手を押し戴き、カリヤは縋りつくように膝をついた。
彼女の口から語られる、途方もなく壮大な神の目論み。連綿と続く、歴史という名の生命の螺旋。幾度も廻されてきた、その歯車。そのすべてを信じているわけではない。しかしそんなものは取るに足らぬ些細なことなのだと、カリヤは強く彼女を見上げた。
「たとえあなたが邪であっても、この世界に生きる者すべてにとって闇を齎す存在であったとしても、構わない」
世界の理も、過去も未来も、クリスタルの意志も、彼女が何者であるのかさえも。この想いの前には、何の意味も為さぬ塵芥に過ぎないのだ。
「あなたが何者であろうとも、私は――」
この身、この力、この魂。ある限り、あなたに捧げよう。
闇の中、カリヤは跪き誓ったのだ。
そのしるし、彼女の足の甲へくちづけを落として。
そう、あの時から。すべては、あの瞬間から始まったのだ。
暗闇から漂う追憶から覚めた彼は、歩を進めつつも唇の端に歪んだ笑みをのぼらせる。
何も知らず謀られ続けるヒトたちに、胸を張って掲げられる大義名分など皆無だ。
この身に、魂に満ちているのは、『欲』に過ぎない。
クリスタルの理も、神の目論みも、世界の行く末も、覆い隠してしまうほどの。
煮えたぎる鉄のように、熱く激しく衝き動かされるがまま、ただ彼女の側にいたいという『欲』。
足取りは、決して軽やかとはいえない。むしろ、泥濘を行くように重い。今日この日から袖を通すこととなった、魔導院院長の正装のように。
この先、幾度となくこの重さと戦っていくのだろう。
そしてその度、己はヒトであることを辞めていくのだろう。
しかし、それでもかまわない。
ヒトである自分を失くしていけば、思い煩うこともなくなる。
恐らく、死者の記憶を無くして生きる、この世界の人々と同じように。
その日が訪れるのを待ちわびているのか。それとも、恐れているのか。
それすらも、闇の中。
解るのは、未だ道半ばということのみ。
進み続けるしかないのだ、と、彼は闇を見据えて歩き続ける。
ただ、彼女の導くままに。