16 指先(賞賛) レムとマキナ



木嶌 純

 彼が眠りについてからずっと降り続いていた雨が、真夜中近くになってはたりと止んだ。
 ――この雨は、涙雨なのかも知れないね。天が悲しんでいるんだよ。私たちと同じように。
 誰かがそう言ったのを聞きつけたこの人が、止ませたに違いない。
 自分のために誰かを悲しませるわけにはいかないと、困ったように眉を下げる彼の姿がありありと目に浮かんで、レムは小さく微笑んだ。
 細く開けられた窓から、雨の残り香を孕む湿った風が吹き込んで、柔らかくカーテンをふくらませる。そう広くもない家にいつも以上に人の気配がひしめいているというのに、この部屋だけは、風の音が聞こえるくらいの静寂に満ち溢れている。
「ねえ、マキナ」
 今まで何度、こうして名前を呼んだことだろう。そしてこれからも、何度だって呼ぶのだろう名前を、レムは呟いた。
「みんなには、もう会えた?」
 彼の心の中に、ずっと住み続けていた彼ら。それはもちろん、レムの中にも。目を閉じれば、鮮明に浮かび上がる。あの頃の姿のまま、微笑んで手を振る彼らが。そして、そんな彼らと手を取りあい、笑顔で再会を喜び合っている彼の幻想も。
「もしかしたら、ちょっとだけ怒られてたりするんじゃない?」
 軽く睨んで、小言を言ってみる。しかし、答えは返ってこない。いつものように、慌てて取り繕うように笑って、肩を竦めることもない。レムに腕を伸ばして、宥めるように抱き寄せることも。
「私を残して、こんなに急に、みんなのところへ行ってしまうなんて……」
 恨み言に滲ませた微笑は、こぼれ落ちた涙に汚されてしまう。焦る彼を、そら見たことかとせっつく誰かの声が聞こえた気がする。涙を拭って、レムは微かな笑いに息を震わせた。


 思いを馳せる時間の流れが、ゆっくりとレムを押し流していく。
「あれから、いろんなことがあったわね」
 クリスタルに頼らず、人の力で生き抜く術を考えよう。彼がそう声を上げたのは、もうずいぶん昔のことになってしまった。
 ふと見つめた彼の手はかさついて荒れ放題で、皺だらけ。自分のそれと寸分の違いもなく、彼の手も年老いていた。いくつもの胼胝、消えない傷跡。酷使しすぎて、ごつごつと骨ばってしまった指の節。
 鍬を振るって畑を耕し、または鋼を削って風の力を使う装置を作り、そして不本意ながら再び武器を握って。そうして刻まれた歴史は、人の歩んだこの数十年の道のりと少しの狂いもなく重なっていた。
 決して、平坦な道ではなかった。反抗、衝突、新たな争い。先の戦ほどではないが、流された血も少なくはなかった。
 それでも、この手は諦めなかった。衰退していくクリスタルの力に惑い、恐怖し、混乱する人々に、彼は繰り返しこの手を差し伸べた。跳ね除けられても、踏みにじられても、怯むことなく。
 そのさまは時として、人々の目に奇異なものに映っただろう。世界の理は根本から揺るぎ、崩れ去ろうとしていた。その事実を――何のためにこの世界が存在し、自分たちにどんな役割が宛がわれていたのかを――知る者は、ほんの一握りであったがゆえに。
 しかし、他の誰に理解できなくとも自分だけはわかっていた。辛くても、悲しくても、愚痴や弱音を一言も吐かず。何かに追い立てられるように、脇目も振らずに一心不乱に。そうして走り続けていた彼の、目指していた行く先。
 そこに在る未来、それを託してくれた人たち。彼の――彼なりの、自分が生き続けることの意味。生かされた、理由。必死に伸ばされていたこの指先の、たどり着く場所。
 人が、人として生きる世界。
 彼らの望んだ、未来。
 彼は確かに、それだけを追い求めていたのだと。


 時間は穏やかに優しく降り積もり、その静けさは意識せずにはいられない別れの悲しみを運んでくる。その静寂に沈む彼の死に顔は、どこまでも安らいでいる。悔いはない、そう言い残すかのごとくに。
 部屋の外から忍び込む喧騒が、また少し色を濃くし始めている。弔問客が集まりだしたのだろうか。だとしたら、そろそろ自分も動かなければならないだろう。一番に駆けつけてくれた古い仲間たちに任せきりにしてしまっては、申し訳ない。
 最後に、と、レムは彼の手をそっと取った。思いがけない冷たさに指先が慄き、それを追いかけるように胸の奥でじわりと何かが溢れだす。
「……マキナ」
 雪の舞う冬、子供のように手袋なしで外出したことを叱りつけたこともあった。その時と同じに、ただ冷え切ってしまっただけのようにも思える彼の手を温めようと、レムはそれを急いで自分の頬に押し当てた。なんでもない思い出に唆されてしゃくりあげるレムの瞳から、堪えきれずに新しい涙がこぼれ落ちる。泣き笑いに歪む頬を伝って、顎の先へ。ぽつりぽつりとベッドカバーに染みを落として。
「どうして……私、どうしてだろう……」
 どうして今まで、当たり前だと思ってたんだろう。自分が流した涙が、伝い落ちる前に彼の手によってすべて拭われていたということを。どれだけ彼のこの指先に、自分が無条件に救われていたのかということを。繰り返し繰り返し、数え上げればきりがないほど。
 失くして初めて気づくのは、失くしたものの果てしない大きさだった。気づいた時にはもう遅い。この手はもう動かない。この指先は、もう二度と自分に触れることはない。永久に。
 いつか、伝えたかった。伝えなければならないと思っていた。どうしてもっと早く、そうしなかったのだろう。唇と一緒に噛みしめた悔いに誘われるように生まれた胸の痛みが、レムの声を詰まらせる。
「……マキナ、私……っ」
 望まぬまま多くの命を奪い、真っ赤な血に塗れていた手。
 拭い去ることのできない罪の意識や、生かされてしまったことへの後ろめたさを、痛みとともに握りしめていた手。
「私、この手が大好きだったのよ」
 迷える多くの人々を導いたと、讃えられているからじゃない。
 新しい世界の道標を示したと、崇められているからじゃない。
 そんな大層なことじゃなく、ただ涙を拭い、ぬくもりを与え、伸ばせばそっと握り返してくれたこの手。
小さな子供の頃から何度も何度も、私を救ってくれたのは、この手だったのだから――。


「ごめんね、マキナ」
 そんなに時間はかからない。必ず、会える、その時にはきちんと伝えるから。それまで、みんなと待ってて。
 今は、ひとえに――感謝と賞賛とを、旅立つ彼への餞に。
「……ありがとう」
 呟きとともに、レムは彼の指先にそっと唇を押しつけた。

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