22 爪先(崇拝) トレイとシンク

Kiss of the oath



木嶌 純

「大きくなったら、お姫さまになりたい」

 女性としてこの世に生を受けたのであれば、一度は考えたことがあるのではないかと思う。それは例えば、男であれば世間を騒がせている魔物を成敗するだとか、世界中を旅してまわるだとか、そういう冒険譚に憧れるのと同じ類のものだろう。
 だから、幼い頃――本当に小さくて物の道理も定かでは無い頃――何度も繰り返しシンクが夢見るように言った気持ちは、すべてではないにしろ理解できたし、私はそんなシンクを可愛らしいとさえ思ってきた。
 実際彼女は、『お姫さま』のような感じだった。もちろん、血筋や家柄で表される身分や地位などではなく――そもそも朱雀は王政でも帝政でもない――、彼女の存在や振る舞いや性格その他から繋がる、私の印象でしかないのだが。
 シンクは私たちのうちの誰よりも年下で、それを体現するようにわがままで甘ったれだった。世の中の『お姫さま』がすべてそうであるというつもりはないが、そんな彼女は『お姫さま』であって、そうであるにもかかわらず不思議と誰からも疎まれずにこれまで過ごしてきたのだ。
 他に施しようがなかった、と言い換えられるかも知れない。または、愛情のこもった諦めとでも表現できるだろうか。
 ――後者においては、少なくとも私にとっては、であったかも知れないが。



 今も、そうだ。私は、分厚い魔導書のページを繰りながらそっとため息をつく。机に向かっている私の背後にわざわざ椅子を持ち出して、背中合わせにシンクは座っている。背もたれのない椅子であるから仕方ないのか、とも思えるが、きっと彼女はすべて計算づくでべったりと私に寄りかかっているのだろう。
「ねぇ、トレイ」
 私の座っている机と対の椅子は、背もたれがついている。といっても私の肩には届かない高さであって、そこを狙うかのようにシンクは頭を擦りつける。
「……なんです?」
 彼女の頭がゆらゆらと落ち着きがないのは、同じようにゆらゆらと揺れる身体のせいだろう。椅子の、きぃきぃと軋む音でも察せられる。シンクは四つ足の椅子の後ろ側二つだけを支えに、私に寄りかかっている。揺れる空気に混じって届く、生乾きの髪の匂い。
「まだ、終わらないの?」
「ええ」
 ペンの先にインクをのせながら、私は答えた。くっ、と、肩甲骨の間に押しつけられた彼女の頭から伝わる圧力が、強くなる。
「せっかく、シンクちゃんがいるのに?」
「はい。まだ……もう少し、かかりますね」
 むうっと唸る彼女に、私はおざなりに返事する。今私の頭の中で繰り広げられているのは、提出期限が迫っているレポートのこと。もちろん、シンクがそれを終えているという情報は耳にしていない。
「急いで……そりゃあもうほんとに急いで、お風呂、上がってきたんだけどなぁ」
 不満げに口を尖らせているのは、見なくてもわかる。そんなシンクに加勢するように、傾いだ椅子がきいっと鋭く軋む。
「何度も……それはもう何度も何度も繰り返し、今夜私はレポートを完成させねばならないのだと、伝えていたはずなのですが」
 私はシンクの口調をそのままなぞりながらも、私はペンを動かす手を止めることはない。大事な結論の部分、書き損じるわけにはいかなかった。我ながら、器用だと思う。とはいえ、どうしてもシンクへの対応がおざなりになってしまうのだったが。
「……もう、真夜中になっちゃう」
「だからこそ、急いでいるのです」
「眠くなっちゃうよ」
「先にやすんでも構いませんよ」
「……う〜ん」
 本当に眠そうに、シンクの声が濁っている。レポートを書き進めることを最優先にしている頭のどこかで、私は私の勧めを彼女が受け入れるかも知れないと察知した。ぬるく湿ったシンクの頭の感触が、ふっと軽くなる。
 別に、彼女の存在をないがしろにしているわけではないということは、わかって頂きたい。ただ、何をおいても彼女を最優先にしなければならないと思っていないということだ。当然の事だろう。私たちはアギト候補生としてこの魔導院に籍を置き、その目的を果たすために日々研鑽を積まなければならない。戦闘訓練のみならず、勉学においても。
 私は、それができる人間だと思っていた。今やるべきことは、レポートを完成させること。そのためにはいかにシンクが駄々を捏ねようとも、私はそれを簡単に受け流すことができるのだと。鋼のごとき集中力と、精神力をもって。
 急に楽になった背中と、途端に襲う薄ら寒さを、ほんの少しだけ寂しく思ったのは、だから気のせいなのだ。とたとたと――恐らくはまた裸足で――歩く彼女の足音はきっと、今にドアをくぐって遠ざかっていく。これでいい、これでゆっくりと、私はレポートを完璧に完成させることができる。再び、ペンをインク瓶に浸してほっと息をつきかけたその時。
「よいしょ……っと」
 あり得ない掛け声とともに弱い風が頬を通り過ぎて行き、私はたまらずその源を振り返った。一瞬の間にひらめいてしまった嫌な予感は寸分の狂いもなく今の現実と重なり合って、そして私を少なからず打ちのめした。
「……何を、しているのですか」
「えぇ? だって、先にやすんでも構いませんって……」
 トレイ言ったじゃない。邪気もなくそう言い放つシンクは、机の真横、私の寝台の上にあられもない格好でよじ登り、枕を抱えてにっこりと笑う。
「あ〜、やっとこっち見てくれた」
 仕掛けた悪戯が成功した達成感のためか、その笑顔はいつにも増して眩しかった。風呂上がりだというその頬はつやつやと輝き、それでいて触れたらきっとしっとりとこの手に吸いつくのだろう。普段のように編まれていない髪は緩やかに波打って、袖のない寝間着から覗く肩や胸元にしどけなく掛かっている。
「寝るのならば、自分の部屋に戻りなさい」
 そんな彼女から目を逸らし、私は言った。見てしまった『あれ』や、想像してしまった『それ』からも必死に意識を遠ざけた。そんな私の葛藤――というか無駄な足掻きだとこの時点では薄々悟ってしまったのだが――を知ってか知らずか、シンクはさらに声に笑いを滲ませる。
「寝ないのならば、ここにいてもいいよね?」
 先ほどの言葉遊びのようなものの続きか、シンクは殊更私の口調を真似てそう訊ねてきた。
「眠くても、待ってるよちゃんと。こうやって、おとなしーく見守っててあげる。トレイが、あんまり夜更かししないように」
「…………」
 つい今しがた、口をついて出てしまった小言を、私は激しく後悔した。眠るのなら、自分の部屋へ。戒めのために吐かれたその言葉は、逆に私を雁字搦めにしてしまった。前言を翻すことを良しとしない私の主義までも味方につけて、シンクは楽しそうに笑っている。
 苦々しい思いを叩きつけるように、私は無言でペンを走らせた。シンクは寝台の上をころりと転がって、それを黙ったまま覗きこんでいる。うつぶせになって、枕の上に肘をついて。長い髪のひと房を弄んだりしながら。
 ごく近いところにいるせいで、姿勢を変えずとも視線だけでその様子を窺うことができてしまうのが、私にとっては不都合極まりなかったと言えるだろう。魔導書をめくる時、またはペン先にインクを足す時、ふとしたはずみで横たわるシンクの姿が目に入る。
 彼女の個人的な情報をみだりに口にするわけにはいかないし、私自身の名誉にもかかわることだから、具体的に説明することは許して欲しい。しかし確実に、彼女のものでありながら、同時に私だけが知っているだろう様々な事象が私を苛み、追い詰めた。
 それ以外ならば、どんなに強い誘惑であったとしても、私は耐えられたと言い切れる。だが、自負していたはずの集中力や精神力など、その穏やかでありながらも有無を言わさぬ確固たる圧力の前では、鋼どころか紙よりも薄くて弱いものに成り下がってしまうのだった。
 わかっていたはずだった。もう何度、こうして苦く諦めたことだろう。どう足掻いても、私はシンクには敵わない。そう、諦めだ。敗北感に満ちた、それでもどこか嬉しさのようなこそばゆさをひとしずく落とした、面妖な感情。
 心の底からため息をひとつ、私はペンを放り投げた。あれ、とシンクが声を上げる。
「もういいの?」
 聞こえる含み笑いが、憎たらしい。それには答えずに私は上着を脱ぎ捨て、部屋の明かりを落としてまわる。
「……ほとんど、完成しましたからね」
 机の上のランプだけそのままに、私は足元から寝台に上がる。見え透いた言い訳をからかうように、寝台が軋んだ音をたてる。彼女の唇の端に乗せられた微笑みが一層色濃くなったのもまた、私の情けない姿を楽しんでいるようにさえ思えてしまう。
「これさえなければ、私はそれこそほとんど完璧な人間だと思うのですが」
 客観的に、ではなく、主観的に。即ち、自らに課した候補生としてのあるべき姿として、の話だが。
「これって〜?」
 独り言を耳聡く聞きつけて、その問いかけの答えそのものであるところの彼女が、もうずっと抱きっぱなしの枕の向こうで首を傾げている。
「……あなたは、知らなくともよいのです」
 膝で進んで枕を取り上げれば、彼女は非難がましく唇を尖らせた。知らなくともよいと突っぱねたことに拗ねたのか、枕を取り上げたことに機嫌を損ねたのか。
 知らなくともよい。知られるわけにもいかないのだし。おそらく永遠に、私はそれを胸の中にしまっておくのだろう。
 なにものにも揺るがないはずの私の意志を、容易く捻じ曲げてしまうことのできる、唯一の存在。
 彼女がそう振る舞うことを赦し、受け入れる自分。
 むしろ、彼女と自分以外の誰かがこんな関係を結ぶことなど、断じて許されるものではないという、暗い独占欲。
 どちらにしろ、彼女は私を大いに掻き乱す。こうしている間にも、あんなに課題のことばかり考えていたはずの私の頭は、もう彼女という存在で埋め尽くされているのだから。



「トレイ?」
 呼ばれて、ふと我に返る。暗がりに浮かぶ、白い顔。私を見上げる、二つの瞳。唇には、微笑み。滑らかな肩、掛け布から覗く脚、その爪先。ここ、と、導かれるように伸べられた手を、しかし私は無視して、その細い足首を掴む。
 彼女は、もう忘れてしまっただろうか。幼い頃から、『お姫さま』になりたいと夢見ていたことを。こんな時でなければ、とてもではないが恥ずかしくて思い浮かべることすらできないことを、想像してみる。例えば、騎士として誓いを立てた身であるところの、自分。そして、誓いを受けるべき相手であるところの、彼女。
 普段なら愚にもつかないと笑い飛ばしてしまえるお笑い草だが、その想像は今この場に漂う甘い雰囲気にはお誂え向きだった。
「……ほとんど、尊敬に値しますよ」
 崇拝、と言ってもいい。そんな本心は上手く隠して、私は呟いた。
「そんけい?」
 何言ってるのかわからないよ。そう言って笑う彼女は、それでも私の手から逃れようとはしない。
「私を邪魔することができるのは、あなただけですから」
 あの頃からずっと、今に至るまで――そして当然これからも――、彼女は私にとっての『お姫さま』であるということ。
 そう誓いを込めて、私は恭しく捧げ持つ小さな足、その先にそっとくちづけた。





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