Log1 | ナノ


※姉弟設定







青年は、急いでいた。

わずかに上がった呼吸は、つい先刻まで緋色舞う中を駆け抜けていた所為だけではない。

早く、と急く気持ちを無理やり抑え付け、それでも足りず手で胸の辺りをぎゅっと掴み、青年は足早に廊下を歩んでいった。

途中、脇に寄って挨拶をしてきた者もいたがそれら全てを無視した。

視界に入っていなかった、という方が正しいかもしれない。

彼は今、あるひとつのことに気を取られているのだから。



「―――失礼します、」



辿りついた襖の前にさっと膝をついて、中に向かってそう声をかけると、すぐに返事があった。



「どうぞ」



柔らかな女性の声だ。

もう一言断りを入れて、襖に指をかける。



「お帰りなさい、佐吉」



音もなく開いたその向こう、文机について筆を手にした妙齢の女性が、微笑を湛えていた。

長い銀髪を背中に垂らし、華奢な肩には卓上に活けられた鈴蘭の葉のような緑色の羽織をかけている。

そしてその両の瞳が彼を捉えて穏やかに細くなった。



「只今戻りました、なまえ様」



閉めた襖の前で青年が頭を垂れると、女性はころころと笑ってそれを制した。



「相変わらずですね。姉に対して、そんなに畏まることもないでしょうに」

「…は、申し訳ありません」



更に恐縮して下を向いてしまった青年に、女性はほんの少し呆れたような吐息を洩らし、気を取り直して彼を呼んだ。

彼は無駄のない動きで彼女の傍に寄った。

ふたりの間には、大人の腕一本分くらいの間隔が空いている。



「……」



女性はちょっと間を開けて、



「もう少し、お寄りなさいな」



言われるままに、青年はその距離を詰めた。

膝と膝がつくくらいまで近づいたところで、女性はわずかに首を傾けた。

彼の顔を覗き込むような仕草だった。


既に筆を置いていた女性の手がすっと持ち上がり、青年の頬に触れる。



「…佐吉」

「はい」

「首尾は、良かったですか」

「はい」

「半兵衛様や形部殿に、ご迷惑はかけませんでしたか」
「はい」

「家康殿と、喧嘩はしませんでしたか」

「…はい」

「したのですね」

「…申し訳ありません」

「ちゃんと、ご飯は食べましたか」

「……はい」

「食べていないのですね」

「…面目御座いません…」

「…佐吉、」

「…はい、」

「……」



そこで彼女は黙った。

黙って、今度は両方の手のひらで青年の細い顔の輪郭を挟む。

ひんやりとした、吸いつくような感触がして、彼は少しだけ目を瞬いた。

そんな様子には気付かず、女性は言った。



「怪我は、ありませんか」



静かな声の中にほんのひとしずく、揺らいだものを感じた。

青年はふと目を伏せる。

睫毛と薄い皮膚が近づいたその角度は、女性とそっくりだった。



「…はい、なまえ様」



応えながら、片方の手を己の頬に添えられたそれに重ねる。

同じくらい低い温度だが、わずかに青年の方が高いようだった。



「大事ありません」

「本当ですね?…無理をしているわけでは、ないのですね?」

「私は嘘は嫌いです」

「…そう、でしたね」



ふ、と彼女の表情が緩んだ。

やはり、少し緊張していたのだろう。



「あなたは、わたくしの自慢ですからね」



白魚のような手が、お世辞にも血色が良いとはいえない肌を撫でる。

青年は、この瞬間がとても好きだった。

頭を撫でられたり、こうして頬を包まれたり。

彼女と関わることができるなら、何だって―――



「あなたのような弟を持てて、お姉ちゃんは嬉しゅうございますよ」

「……」



不意に、控えめに添えた自分の手の温度が下がるのを青年は感じた。

―――控えめに。遠慮がちに。



「…勿体なき、お言葉です」



それを受けて女性は、「ただ少し、真面目過ぎるのかも」と笑った。






以前、何故彼女を名前で呼ぶのかと問われたことがある。 
 
その者には上に兄がいて、「兄上」と呼んで慕っていたから、実の姉を「姉」と呼ばない彼を不思議に思ったのだろう。

どういう言い回しで答えたかは忘れてしまったが、答え自体は覚えている―――否、忘れられないという方が正しいのかもしれない。


それは非常に単純明快なことであった。

彼にとって、彼女は『姉』ではなく『なまえ』なのだ。

故に彼は彼女を「姉」と呼ばない。

実に単純。

しかし、単純なことこそ難解―――とはよく言ったものだ。



「ねえさま…」



最後にそう呼んだのはいつのことだったろうか。

そのことに彼女が気付くのは、いつなのだろうか。

そして、そうなった時己はどうするのだろう。

彼は累(かさ)ねて想う。

結論を言えば、答えはもう決まっている。

問題は、己がそれまで待っていられるかどうかというところだったが―――とにかく。



「私は嘘が嫌いです、……ねえさま」



いつか覚えていないなら、今を最後にすればいい。


わたくしもですよ、と微笑む彼女は、やはり美しかった。





―――――――――――――
お姉ちゃん設定好きです。

弟おちょくる姉上が好きです。

おちょくられながらもシスコンな弟はもっと好きです。


ちなみに「姉様」が「ねえさま」になっているのは、漢字が分からない小さい頃に呼んでた名残。



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