自覚はないが疲れていたのか。 はたまた、特に理由はなかったのか。 結局どちらか分からなかったが、ともかく。 先に帰っているはずの恋人に甘えたかったのは事実。 全く、そんなキャラではないけれど。 「…なまえ、」 呼んでみる。 が、返事はない。 「いねェのか?」 鍵を開けたままで外出するなど不用心にもほどがある。 夕神は元々良くない目つきを更に鋭くした。 しかし、それに関してはすぐに返事があった。 「…いるよ」 首を巡らせてみると、ベッドの上に投げ出された足の先が見えた。 「返事くれェしろよ」 「……うん、ごめん」 何だか上の空である。 部屋を移動すると、理由が分かった。 やけに静かだと思えば、ベッドの上にうつ伏せになって漫画本を読んでいる。 夕神は小説は読むが漫画は嗜まない。 対して彼女は、小説も漫画も大好きである。 壁一面を覆う本棚には、彼女が本屋を巡って集めた小説・漫画本が所狭しと並んでいる。 いつの間にか、夕神の持ち物である法曹関係書籍は隅っこに追いやられていた。 と、本棚の前にズラリと並んだ見覚えのない背表紙群。 「…また新しいのか」 「ん」 「ちったァ考えて買えよ」 「1冊100円」 「金の話じゃねェからな」 ちなみに何冊購入したのか尋ねると、 「50冊セット」 「…1回斬っといた方がいいかねェ」 彼は本棚の空きスペースを考えるように言っているのだが、言葉は彼女の耳から脳内を素通りして出て行っているようだ。 明らかに入らないのに50冊も買ってくる彼女に対して、夕神が物騒なことを言うが、生返事が返ってくる。 増やしたら増えただけ売る等すればいいのだが、彼女は一度手元に置いた書籍は絶対に手放そうとしない。 愛着が湧くらしいのだ。 完全に集中している彼女の背後で、夕神の機嫌は下降の一途を辿っている。 ひとつは、前述した大人買いのせい。 もうひとつは、 「…おい、なまえ」 「んむ」 「………」 切れ長の目がすうっと細くなる。 もうひとつは、彼女の態度。 だが、そこは大人である夕神検事。 漫画本を取り上げるなどという、子供っぽい真似はしない。 代わりに、違う方法で邪魔をするまでだ。 「何読んでんだ?」 軋ませないよう配慮してベッドに腰掛けつつ、尋ねる。 彼女は1拍置いてとある有名タイトルを答えた。 流行ものに疎い彼でも知っている、長いこと連載している人気作だ。 読んだことはないが。 「面白ェのか」 「そこに痺れる、憧れるぅ」 「…は?」 「名言頂きました」 本から目を離さずに不可解な言葉を発する。 独り言なのか、彼に向かって言っているのか分からない。 劇中の台詞…なのだろうか。 それきり、彼女はまた口を閉じて本の世界に戻った。 「………」 ページをめくる指先に噛みついてやりたくなる。 が、それは後回しにして、彼は本格的に邪魔をすることにした。 「…む」 わずかにベッドが沈んで、彼女は肩越しに首を巡らせた。 至近距離で、彼と目が合う。 彼女の体を挟んだ向こう側に手をついている。 どうかしたかい、とでも言いたげな目で見返され、彼女は無言で本に視線を戻す。 ―――そして、わずかの間。 「……っ?」 唐突に腰辺りに何かが触れる感触がして、手がぴくっと跳ねる。 訝しげに振り返ると、やっぱり彼と目が合った。 「服。めくれてたぜ」 「…ありがと」 キャミソールの裾を直してくれたらしい。 なんとなく口角が上がっているように見えるのが気にかかるが、とりあえず物語に戻る。 息もつかせぬ展開と一癖も二癖もある登場人物たちに、あっという間に引き込まれる。 そして思わず、 「ツェペリさんイケメンだなー」 瞬間。 「いっ…!?」 突然背中を襲った痛みに、思わず本を取り落す。 しおりなんか挟んでいない単行本が、ばさりと閉じた。 「ちょっ…迅さん?」 いきなり爪を立ててきた本人は、至って普通の顔である。 「気にせず読んでてくんな」 そんなことを言った。 間違いない、口角が上がっている。 しかも、意地の悪い方向に。 「………」 半ば意地になってきて、なまえはあえて触れずに本を拾い上げ、ページをめくる。 途中だったところまでは、すんなり見つけることができた。 目は紙の上に向かっているが、意識は後方を警戒する体勢に入った。 しかし、しばらく経っても何も仕掛けて来ない。 飽きたのかな、と気を抜いた、その時。 「……ひっ、」 彼女の口から小さい悲鳴のような声がもれた。 背中の、先程爪を立てられた位置に、今度は柔らかいものが当てられた。 「…迅さん」 低い声で呼ぶと、彼は「ん?」と背中から若干顔を上げた。 「何なの、さっきから」 若干不機嫌な声を出すと、気にするなとだけ言って笑う。 「ほら。前向いてろ」 手で半ば強引に顔を戻される。 抗議しようと口を開きかけ―――引っ込んだ。 肩口に軽く歯を立てられる。 続いて、うなじ。 うなじを噛まれるなんて、猫の子にでもなった気分だ……じゃなくて。 「ちょ、っと…待って、」 「ん?」 「ん?じゃないわよ、」 いよいよもって体ごと振り返ろうとした時、今度は耳に噛みつかれた。 今までよりも強めで、思わず怯む。 しかし、噛んできたのは一瞬だった。 その後は打って変わって、もどかしいくらい優しく舐られる。 拍子に変な声が出そうになって、咄嗟に唇を噛みしめて耐えた。 彼女が抵抗しないのをいいことに『攻撃』は続く。 更に、しれっとキャミソールの肩紐を外している。 ―――ああ、もう、まったく。 「――わかった、わかったわよ!」 本を大事にする彼女にしては珍しく漫画本をテーブルに放って、体を反転させた。 彼の一瞬の隙をつき、薄い唇に噛みつくような勢いで自分のそれを押し当てる。 同時に首へ腕を回して、そのまま後ろに倒れた。 ベッドが軋む。 がり、と本当に唇を噛んでやると、さすがに痛かったのか彼は顔を上げた。 口元に薄ら血が滲んでいる。 …ちょっと、強くし過ぎちゃったかな。 「犬みてェだな」 「うるさい構ってちゃん」 「構えと言った覚えはねェがなァ」 「あっそ」 なんとも楽しそうに笑うその顔を睨み上げて、冷たく突き放す。 (…構って欲しいならそう言えばいいのに) 本当に、素直じゃないんだから。 「…で?法廷で何かあったの?」 「別にねェよ」 「じゃあ、どうしてまた柄にもないことしたのよ」 どうにも腑に落ちないらしい彼女を視界の端に、服の裾に手を移動させながら彼は言った。 シドとヴィシャスに 手錠 とキス (たまには甘えさせろ) ―――――――――――― 構ってちゃんユガミ検事。 たまにはいいと思うんです、うん。 タイトルは林檎さんの『ここでキスして。』の歌詞から。 20131002 |