※夢主の名前は出てきますが、仕事用の名前なので変換なし。ご了承あれ。 「……ツイてない」 ぼそりと、彼は呟いた。 周りを行き交う群衆の誰に言ったわけでもないが、強いて言えば、彼の頭上に重たく寝そべっている雨雲に対しての言葉だ。 昼間は美しい晴れ空を引き立てる名脇役だった雲だが、いい加減青空の添え物扱いにうんざりしたのか、今では真っ黒に不貞腐れてぶつくさ文句を垂れている。 愚痴を聞かされ続けて面倒になったのだろう、雲の中にある水素たちは水滴に姿を変え、我先にと地上へ逃げていき、結果として町は土砂降りである。 そして彼は、そのとばっちりをモロに受けている一人だった。 「ほんと…ツイてないわね」 性別にそぐわない言葉遣いでそう呟くと、近くで時計を気にしていた会社員風の女性がちらりと彼を見た。 そんな反応には嫌というほど慣れているので気にも留めない、というか気付いてさえいない彼は、相も変わらず天を睨んでいる。 (まったく、愚痴くらい聞いてあげなさいよ) 心の中で、途切れることなく退避を続ける雨粒たちに文句を言う。 (おかげでこんなところで足止め喰らってる身にもなってよね) 浅くため息をつき、腕時計に目を落とした。 4時30分。当然午後の、だ。 1時間半ほど前に買い物のため、家を出た時はまだ晴れていた。 予報でも雨が降るなんて一言も言っていなかったから、傘は持って行かなかった。 その結果がこれだ。 帰りの道中に突然降られ、近くにあった小さな美術館に避難した。 小雨程度なら走って行くのだが、ここまで盛大に降っている中を強引に進むのは出来れば避けたい。 彼は、腕に抱えた紙袋を見下ろす。 薄茶色の地に紺色の文字で店名が印刷されている。 ―――濡らすわけにはいかないのに。 もう少し待ってみて、それでも止みそうもなければ何とか走って帰ろう。 そういうことにして彼がまた物憂げな息を吐いた時、 「―――失礼?」 喧しい雨音の中でもよく通る、涼やかな声がした。 見ると、いつの間にかひとりの女性が彼の傍らに立っていた。 彼はちょっと目を瞬いた。 黒い髪に黒い目、どこかしらに東洋の雰囲気漂うその女性が、かなり綺麗な顔立ちをしていたからだ。 少なくとも彼が最近見た中では一番の美人である。 謎の美女は、若干首の角度を傾けた。 閉館間際の美術館の明かりに反射して、黒髪が艶々と輝く。 「突然声を掛けてすみません、」 「いえ……何か?」 彼は元来優しく面倒見の良い性質だが、第一印象でそんな評価をされることはあまりない。 この時も、雨に対する苛立ちも混じっていたのだろうが、女性に対して短い言葉で応じた。 しかし、彼女は彼の態度を意に介する風もなく続けた。 「失礼ですが、傘をお持ちではないように見受けられますが」 女性の声は落ち着いていて、若い見た目の割に低かった。 それでいて響きが涼しいので、堅苦しい口調が窮屈に感じない。 何だかスマートな紳士と話しているような気になってくる。 「…まぁ、見たままです」 彼はちょっと肩をすくめて答えた。 すると女性は、彼に向かって何かを差し出した。 黒い、何の変哲も面白みもない傘だった。 「よろしければ、これをお使い下さい」 「……お気持ちはありがたいですけど…」 初対面の人に悪い、と彼が丁重に辞退する。 しかし、女性はそれくらいでは引かなかった。 「予報では、夜中までこのまま降り続けるそうです」 「…家、近いので大丈夫です」 「それならば何故、かれこれ30分も雨宿りしていらっしゃるので?」 わずかに面白がるような色が混ざった言い方に、ちょっと眉をひそめる。 すると彼の微妙な表情の変化に気付いたのか、女性が笑って謝った。 「これは失礼をしました。どうにも私は、人の言うことを斜めに取る性質でして」 邪気のない調子でころころ笑った後、彼女は柔らかな微笑を浮かべて言った。 「ご自身はともかく、その袋を濡らしたくはないでしょう?」 女性は目で紙袋を指した。 どういうことかと問うと、 「いくらなんでも、画材を雨に当てるのはよろしくありませんから」 「………」 「それに、」 女性は一瞬黙った彼の手に素早く傘を握らせながら、 「貴方のような美しい人を濡れネズミにするのは、信条に反します」 さらり、と口にした。 逆に彼はそのまま口が利けなくなった。 いささか呆気にとられて、彼女の整った顔を見つめる。 女性はただ、首を傾げて上品に微笑んでいた。 と、不意に近くでクラクションの音が鳴った。 女性と彼が同時にそちらを向く。 美術館前の短い階段を下りた先に、一台の車が留まっていた。 黒い車体を雨が洗う。 女性は、多分運転手に向かってだろう、軽く手を挙げて応じ、彼に向き直った。 「それは差し上げます」 「え?ちょっと待っ……」 ごきげんよう、と爽やかに去って行こうとする女性の背中を慌てて引き止め、彼はやっと言った。 「名前!…とりあえず名前、教えて下さい!」 今にも車のノブに手をかけようとしていた彼女が、肩越しに振り返った。 「ミハエル。―――ミハエル、です」 最後に輝くような笑顔を残して、車は水のカーテンの中で見えなくなった。 「……何だったのかしら…」 彼は呆然と黒い車体を見送っていたが、やがて彼女に握らされた傘に目を落とした。 大きさからして男物だ。 ばさりと開くと、黒いそれは巨大なコウモリのように、彼の頭上に羽を広げる。 そこで、彼は柄に金文字で何か彫ってあるのに気付いた。 「…『Lockhart』……ロックハート?」 それなりに見かける苗字だ。 では、これがあの美女の名前――― 「え?……ちょっと待って」 あの人、「ミハエル」って名乗ってたわよね? 「……うそ」 思わず呟いて、彼は柄に刻印された名前と、黒い車が去っていった方向とを見比べた。 雨は、まだ止む様子はない。 |