死のうと思っていました。何かきっかけがあったわけではありません。物心ついた頃から、何ということもなく、漠然とそう思っておりました。しかしそれを人に対して口に出してしまっては駄目らしいというのを、同じ時期に学び、以来毎日、心の中で今日死のう、明日死のうと繰り返してまいりました。けれど意気地がないため、死なないままで数年を過ごしたある日、ようやっと決心がついて、当時通っていた教え処の近くにある、人気のないところに生えた木に縄をかけました。さあ首をかけようと近づけたその時、後ろから声をかけられました。


「…なまえさん?なにしてるんですか」


教え処で一緒の、鬼灯くんでした。鬼には珍しく真っ直ぐな髪の持ち主で、とても頭が良いけれどなんだか変わったひとです。私は縄を首にかけるのを一旦やめて、振り返って答えました。


「死のうと、思っています」
「そうですか。それは貴女の勝手ですが、課題を終わらせてからにして下さい」


課題。なんのことでしょうか。私がきょとんとしていると、鬼灯くんは眉を寄せてこちらに近寄ってきました。


「今日、宿題が出たでしょう。二人一組で動物の観察日記をつけるんです。貴女、私とペアですよ。忘れてもらっちゃ困ります」


そうして私の手首を掴み、ずんずんと歩き出しました。


「どこへ行くのですか?」
「裏の山です。この前珍しい蝶を見つけたので、それを観察しようと思います」


有無を言わさず私を引っ張る鬼灯くんの、後ろ頭を見つめながら、私は死ぬのはまた今度にすることにしました。課題は二人一組でないとできません。そして課題を提出しなければ鬼灯くんが怒られてしまいます。観察日記が書きあがるまで、生きていようと思いました。






死のうと思いました。

物心ついた頃より幾度となくしてきた決意を何度目かで改め、私は崖の上に立ち、下を覗いてみました。深くて黒くて、果てが見えません。ここに飛び込めば、私を形作る一切も黒々と溶けて消えてなくなることができましょう。安堵して、私は足を踏み出しました。そうしたら、また後ろから声をかけられました。


「なまえさん、こんなところにいたんですか」


鬼灯くんでした。今よりもっと小さな頃、一緒に珍しい蝶々の観察日記をつけてから、私が消えることを試みる度に彼はいつの間にか現れて、烏頭くんのお母さんに夕飯におよばれしたから一緒に行こうとか、怪しい競売が行われるから見に行こうとか、ことごとく私の企てを延期にせしめるのでした。なぜ自分のようなひどく面白味のない存在にこうも構うのか分かりません。聞いても彼は教えてくれませんでした。仕方ないので、私は、彼に見つかった時の決まり文句となりつつあることを口に出しました。


「鬼灯くん、私、死のうと思うんです」
「そうですか。よくもまぁ、飽きないものですね」


例のごとく、彼はあっさりと突き放すようなことを言って、こちらに近づいてきました。私は他のひとのことを恐怖しています。表面では甘く柔らかな顔をしていても、その胸の奥にどれほどの塩辛く筋張ったものを隠しているのだろうと想像しては、怯えてしまうのです。けれど、こと鬼灯くんに限っては、不思議と、こわい、と感じたことが無いのでした。彼の顔にはあまり喜怒哀楽というものが浮かびませんでしたから、表面と中身の食い違いを想像して恐ろしがる余地がなかったせいかもしれません。鬼灯くんは私の目の前に立ち、いつのもように静かなひくい声で言いました。


「死ぬのは勝手ですけど、少し待ってもらえませんか」
「どうしてですか」
「私、近々中国へ裁判制度を学びに行くことにしたんです」


勉強熱心な彼は、もう自分自身で将来を決めていました。対する私は、死のうということ以外はなんにも決めていませんでした。


「貴女に言いたいことがあります。戻ってきたらお伝えしますので、死ぬのはそれを聞いてからにしてください」
「今ではいけないのですか」
「駄目です。私はまだ幼いので」


少しか成長してからでないと、と彼は言いました。そして私は、やっぱり彼に連れられて家に帰りました。それからいくらか経った後、彼は中国へ旅立ちました。

彼がいない間の時を、私はぼうとした心地で過ごしました。いえ、それまでも概ねぼんやり暮らしてきたのですが、その期間は特にふわふわと所在なく、ただ呼吸を繰り返していました。幾度も消えようと、縄を手に木の前に立ったり、崖の間際から眼下を覗き込んだりしましたが、その度、彼が言い残していった文言が去来するのです。あの鬼灯くんが、私なぞに伝えたいこと。いったいなんだろう。他のひとに興味を持ったのは、生まれてはじめてかもしれませんでした。結局私は、崖を離れ、納屋に縄をきちんと仕舞い、訝しむ家族を躱して己の部屋に戻るのでした。

彼が帰って来るまで生きていよう。そう、思いました。





何年か経って、鬼灯くんは帰ってきました。不思議と、私のことを覚えていました。私はさして人目に立つ顔かたちでもないし、心に引っかかるような気の利いた文句も言えません。なのに忘れず、帰って来たその足で私のもとを訪ねることができたのは、きっと彼の頭の構造が記憶することに適していたせいでしょう。


「お久しぶりです。相も変わらず陰気なご面相ですね、安心しました」


表情なくそんなことを言い、彼はそっと私の手首を掴みました。いえ、掴む、というよりは添える、といった方が正しいかもしれません。とにもかくにも私の青い血管の上に触れた彼は、すいと歩き出しました。私はつられて後に続き、気がついたら、そこはかつて一緒に蝶々を追いかけた裏の山の中でした。夜であったので、私たちの足音に驚いた蝶々たちが、寝ぼけてふらりと舞い上がるのをなんとなく眺めていたら、手首に添えられた鬼灯くんの指に力がこもり、ちょっと痛いほどでしたので、彼の顔を見上げました。


「…前に私が言ったこと、覚えていますか」


もちろんです。中国から帰ってきたら言いたいことがある、と。それまで死ぬのは止せ、と。その口約束だけのために、私は今日までのろのろと生きてきたのですから。私が頷くと、鬼灯くんは少しだけ安堵した顔をしました。そうして、例の、伝えたかったことについて言い及びました。


「なまえさん、全然気付いてなかったでしょうけど、私は貴女をお慕いしています。自分でも理由はよく分かりませんが、とにかく好きなのです」


要約すると、男女におけるお付き合いをして欲しいと、そういうことのようでした。私は吃驚して、しばらくへどもどしておりましたが、ようやっと少し時間をもらいたいと返事をしました。彼は黙って頷き、指の力を解いて、来た時に輪をかけて優しく私の手を握り直し、家まで送ってくれました。

その夜、布団の中で、ずっと考えていました。しかし答えは出ませんでした。思考に疲れ果て、眠りに落ちる際、この答えを見つけるまで生きていようと、思いました。




死のうと、思いました。

刑場の大きな釜の縁に立ち、中を見下ろしてみますと、ぐらぐらと煮立つ赤銅が泡をこさえていました。この中に飛び込めば鬼といえど肉が焼け焦げるでしょう。服役する亡者たちとは違い、単なる一獄卒の私は、一度体がどうにかなればそれきりです。期待して手を伸ばし、いざ渦巻く金属に触れようとしました。けれどやっぱり、背後から声をかけられました。


「またですか。仕事してください」


また、はこちらの台詞です。鬼灯くんは呆れたように私を見つめ、さっさと足場を上って私を釜から遠ざけました。


「今日は早く上がりたいんです。こんなところで油を売ってる暇はありませんよ」


それは鬼灯くんの願望であって、私の仕事ぶりは関係ないのではないか。そう口に出してみると、彼はまじめな顔で、


「帰りにご飯を食べに行きましょう。定時になったら迎えに行きますから、それまでに仕事終わらせてくださいね」


有無を言わさぬ調子は、もうずいぶん前、彼との男女におけるお付き合いについて考え続けた末、再び会った彼に対して、がたぴしと具合の悪いからくり人形のごとき動作で頷いた時から変わりません。あれから数百年あまり経ちますが、彼は今や閻魔大王様の補佐役です。比べて私は何も変わっておりません。相も変わらず消えるための企てを起しては彼に止められ、なんやかんやと延期する事態に持ち込まれ、ずるずると生きてきました。

彼は美しく、何においても完璧で、殿方はもちろん、女人たちからの憧れも強かったのであります。従って、彼に懸想文などしたためる女人も数多くおられました。そういう、前を向いて生きている方々にとって、私という存在は甚だ目障りであったようです。補佐官様はなにゆえ、あのような陰気で、生きているとも死んでいるともつかぬ女を、お傍に置いておられるのだろう。要約すればだいたいそのようなことを、ある一部の女人たちは皆で囁き合っているようでした。まさしくその通り、私などは美しい彼の隣席、はたまた向い、そうでなければ斜向かいですら、汚す資格のない女なのです。

―――消えてしまいたい。この時赤銅の煮える鍋の上にてそう思ったのには、珍しく明確な理由がくっついていました。言われた通りに仕事を片付け、彼に連れられて向かった小さなお店で、そういうわけだから、次は黙って死なせて欲しいと懇願すると、逆に彼から頼み事をされてしまいました。


「お金がけっこう溜まりました」
「そうですか」
「独り身には余るくらいです」
「そうですか」
「三人か四人いても十分なほどだと思います」
「そうですか」
「貴女がひとり増えたところで、とりあえず金銭面で困ることはありません」
「そう、ですか」
「そういうわけなので、なまえさん、私と結婚してください」


どういうわけなのか。思わず質問すると、鬼灯くんはちょっと眉根を寄せてお箸を置きました。さっき貴女が言った消えたい理由も、大概どういうわけだと聞きたいよ、と彼は言いました。


「私は好きで貴女に構っているんです。それをとやかく言われる筋合いはありません」


同じく、好きで貴女と夫婦になりたいと思っているんです。そう言われて、私は吃驚しました。いつかのように。しかし以前と違っていたのは、己の意思で顎を下げるに従い、目線も下げ、再び上向けて彼の眼を見つめる一連の動作を、何日も悩むことなくその場で行えたというところです。

それを見て、彼は机上の私の手をきゅうと握りしめました。あの時のように強い力でしたが、それでも、不思議と、痛いとは感じませんでした。この手を痛いと感じるまで、生きていようと思いました。






死のう、とは思わなかったのですが、死ぬ、とは思いました。

彼と夫婦の契りを交わしてずいぶん経ったある日のこと、私は自身の体内に別な存在が息づいていることを、お医者様から知らされました。漢方にお詳しいそのお医者様は、笑顔でしきりにお祝いの言葉をかけて下さいましたが、私は、喜んでよいものかどうか計りかねていました。その後すぐに、知らせを受けた彼が飛んできて、事の次第を知り、まず勢いに任せてお医者様を拳で突き飛ばした後、私に向き直り、今しがた攻撃を放った拳と同じとは思えないほど慎重な手つきで、私の腹部を撫でました。一度、二度、三度と撫でてから、驚くほど小さな声でこちらの名を口にし、返事をすると、なんだかこう、どうしてよいか分からない様子で、狼狽えながら、私を抱きしめました。語彙の豊富な彼には本当に珍しく、「仕合わせです」、と一言だけ喋り、それきり黙り込んでしまいました。

それから、頬に握りこぶしの痕を張り付けたお医者様から、彼とともに妊婦に良い食べ物などについて教えを受けながら、私が死んだら罪のないこの子も巻き添えになってしまうなと考えておりました。


そして十月十日が経ち、月満ちて、あの子が、世にまろび出てきました。その時の痛みたるや。このような死線を潜り抜けてきたおかげで、世の中の母親というものは皆ああも強いのだと痛感しました。なんだか無我夢中で、ほとんど我を忘れたようにひたすら、ただ彼の子が無事に出てきてくれることを祈っておりました。

火のついたような鳴き声にはっとして、なにがなにやら分からぬうちに、小さな、赤い、まるっこいものを差し出され、困惑しました。おんなのこですよ、と産婆さんに言われてじわじわと、ああ君か、あの時腹を撫でた彼の手の下に居たのは君なのか、という認識が、私のうちに広がってまいりました。抱けばひどくやわらかく、力の加減が分からずおどおどしていたら、駆けつけた彼の腕に支えられ、ほっと安堵致しました。

死ぬかと思ったけれど、私は結局、死にませんでした。






その子はすくすくと成長していきました。私のような者の乳を糧として日々過ごしているのに、どうしてこんなにも、どんな美しい言葉を尽くしても足りないほどにきらきらと輝いて見えるのか、とんと見当がつきません。顔立ちがはきとしてきた頃に、目元が私と似ているように思えてぎょっとしました。私などに似てはいけません、お父さまに似るのです。ふわふわとした髪を撫でながらそう囁くと、子はきゃっきゃと微笑み、私の指をもくもくとやわらかに食みました。しばらくそのままにしていましたが、あまりに長い間熱心に吸っているので、何やら心配になってきました。


「…何が気に入ったのでしょうか」
「そりゃあ母親の指ですから、気に入るのも当然でしょう」


すいと現れた彼はそう言って、人差し指で子の頬をやさしくつつきました。子は大いに喜び、後から来た指をきゅうと握りました。私の脳裏には、彼の言葉がこだましておりました。

―――母親。


「目元はなまえさん似ですね」


呟いて、彼は子に話しかけるのです。


「いいですか、出来ればお母さんに似るんですよ。貴女の父親は、貴女のお母さんのことが大好きですから」


いたって真面目な顔でそんなことを言うものだから、私は思わず噴き出してしまいました。おかあさん。彼が口にするとなんだかとてもかわいらしく、先程までこの子の将来について慄いていたことが阿呆のように思えてきました。

―――お母さん。彼が言った言葉を胸の内で繰り返し、じんわりと、なにかあたたかい、血のようなものが、ゆっくりと体を巡っていく感じがしました。私は、この小さな子の母親なのだ。そして、隣に立つ、この裏表のないひとの妻なのだ。今更ながらそういう実感が湧いてきて、ほわりと一滴、涙がこぼれました。胸に抱いた娘は、あう、と一声、私の頬に描かれた滴の跡にぴたりと手を当てました。それは、同時に肩へ置かれた大きな手と同じように、私の中へ、何者にも代え難きいとしさを落としたのです。



この子が大きくなり、白い花嫁衣装に身を包むまで。この子が世の母たちと同じように死線を体験し、親となるまで。そしてその子がまた大きくなる。その繰り返しの果てに、かつて幾度も私を現実に繋ぎ止めてくれた彼が、その生涯を終えるまで。

生きていようと、決めました。






表現の勉強のつもりで某太宰さん(名前言っちゃってる)の作品を読んだ勢いでかりかりと。長すぎた上いまいちまとまらない仕上がりになってしまいました…。あと鬼灯様が普通に良い人だこれェ(え)。では、読んで下さってありがとうございました。

20141219



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