7万打ありがとね | ナノ

※夢主と鬼灯さんの中身が入れ替わります。





目の前で火花のようなものが散る。

否、あれは星、死兆星だろうか。

真っ白に染まる視界、固い床の感触を感じながら、なまえは考えた。

いったい何がどうしてこうなった。



終業予定時刻まで残り数時間、なまえの脳内及び胃の腑を支配するのは、恋い焦がれるあの存在。

すなわち夕飯である。

今日の食堂の夕ご飯メニューは親子丼、しかも鮭とイクラという海の幸親子だ。

これは地に足付けている場合ではない、この浮足だった心のごとく、残りの就業時間も浮かれてどこかへ行ってくれまいかなどと考えていたのが悪かったらしい。

資料を両手いっぱいに抱え、後頭部から音符なんか飛ばしながら、閻魔殿の階段を下る。

小柄ななまえの視界は尋常ではない量の書類等々で埋め尽くされ、足元がとにかく心配であるが、数百年も勤めている場所だけに慣れきってしまっている。

慣れとは恐ろしいものだ。

加えて晩ごはんに気を取られていた彼女の踵は、長い間親しんだ階段の角を滑った。

「おうっふ!?」という珍妙な雄叫びをあげ、なまえと資料は宙へ身を躍らせた。


ちょうどその時、まさに落下地点にあたる階段の最下段に、同じく資料の山を抱えた男性がひとり現れた。

彼の目元にはくっきりとした隈が浮き、どこか物憂げに見える視線は書類に落とされている。

こちらはこちらで、寝不足のために注意力散漫だったのだ。



ごちーん!といっそすがすがしいような音が響き、ばさばさと紙類がこすれ合い、やがて静かになった。



「……う…」



先に正気に戻ったのはなまえの方だった。

額がとても痛い。ついでに腰も痛い、おまけに尻も痛い、もひとつ加えて後頭部も痛い。

そして胸が苦しい。

まさか恋!?……なんてたわけたことは、さすがの彼女も思わない。

そろそろと薄目を開けて圧迫感の正体を確認する。

―――が。




「……え」




意図せず喉元を空気の振動が駆けのぼった。

それが自分の声とは到底思えなくて、一層混乱を極める。

さっきからなまえの胸を圧迫せしめていたのは、紛れもなく―――なまえ自身だった。







「…状況を整理しましょう」



雑多な部屋の中、向かい合って正しく座り、女は口を開く。

その顔は表情筋がストライキを起こしたかのごとく能面じみていて、いつものお気楽な様子は微塵もない。

対する男の方は、うつむき加減で半泣き状態である。

見る人によって可愛い、気色悪い、天変地異の前触れなど様々に勝手な念を抱かせるその様は、およそ普段の調子とはかけ離れている。

ぐすんと洟をすすった男に、女は小さくため息をついた。



「泣きたいのはこっちですよ。けっこう景気よく刺さりましたからね」



そう言う女の額には大きな絆創膏が貼られている。

どこの三つ目族かとつっこむ気力は男には一切ないらしい。

ハの字に眉を下げ、弱々しく女を見た。



「…それ、あたしが悪いわけじゃないですよね」
「黙らっしゃい。貴女が足踏み外さなければ私の角が刺さって痛い思いすることなどなかったし、そもそも中身が入れ替わるなんてファンタスティックなことも起こらなかったんです」



あくまで無表情だがこの女、今の状況にいたく感動しているらしい。

階段から落ちて額をごっつんこして入れ替わるなんて、創作物の中では手垢がつくほど使い古されたシチュエーションだ。

まさか現実で起こり得るなど誰が思っただろう。

女――中身は男だが――からにじみ出るウキウキ感とは対照的に、男――中身は女――は不安げだ。

薬品や呪術の類ではなさそうなだけに対処の仕方が分からないのだ、不安がるのも致し方なし。

そんな彼女の心情を察せない(意図的に察しないことはあるが)男ではないので、安心させるように言った。



「こういうのは明日か明後日くらいには戻ってるのが定石です。そんなに心配しなくていいと思いますよ」
「ですけどこのままじゃ仕事に支障が出ちゃいますよ」
「それぞれがそれぞれの業務をすればいいだけでしょう」
「あたし鬼灯様の代わりとか務まりませんって!」
「数日くらいなら何とかなりますって。それより、せっかくですからこの状況を楽しみましょうよ」



そんな悠長なことを言っている。

彼女が涙目で睨むと、「私の顔でそんな表情しないで下さいキモチワルイ」とにべもなく返された。



「鬼灯様こそ、あたしの顔で能面チックなのやめて下さいよ!」
「貴女の取り柄は愛嬌と、ワガママなボディくらいですしね」
「息をするように乳触るなぁぁぁ!」



真顔で胸を鷲掴みする上司になまえは悲鳴をあげ、その手首を捉えた。

毎朝鏡の中でご対面している顔が不満げに見上げてくるのは、ぞっとしない光景である。



「邪魔しないで下さい、今女体の神秘を――」
「そっとしといてあげて!頼むから!」
「何を言いますか。これまで散々愛でたり弄ったり苛めたりしてきましたが、やはり自分で体験しないと分からないこともあるのですよ」
「分かったから脱ぐなぁぁ!!」



なまえの手から腕を抜き、するすると打掛を脱ぎだす。

慌てて再度その手を抑えるが、瞬間鬼灯が顔をしかめた。



「痛い」
「あ、…ご、ごめんなさい」



力加減を誤ってしまったようだ。

いくら鬼で頑丈とはいえ、鬼灯の腕力で掴まれたら本当は痛いどころの話ではないだろう。

思い返してみれば、なまえは彼に触れられた中で一度も痛みを感じたことはない。

今まで特に考えていなかったが、彼なりに気を遣ってくれていたのかも――とちょっぴり感じ入るが、力が緩んだのを良いことに堂々と襦袢の合わせへ手を突っ込む様子に全部台無しになった。



「だ!か!ら!平然と揉まないでって言ってるでしょう!」
「動揺しながら揉めばいいんですか?…あっどうしようっ、なまえさんの胸まるでマシュマロっ、」
「気持ち悪いんで勘弁して下さいぃぃ!」
「…何ですか、我儘さんですね」



若干機嫌を損ねたような顔(しかし胸を揉む手は元気に活動中)をした後、鬼灯は少し首を傾けて何やら思案しだした。

…あ、やばい、なんか良からぬこと考えてる。

そう思った時には既に遅かったらしい。



「…話は変わりますがなまえさん、最近私たちマンネリ化してると思うんです」
「え、な、何がですか」
「もちろん夜の…」
「あーあー!何でないです!」
「騒がしい人ですね。…で、マンネリ打破の方法をたった今思いついたのですが、試してみます?」
「いえ結構です」
「そうですか、では失敬して」
「話聞いて!?」



なまえの訴えも空しく、さっと両手首を掴まれてベッドに押し倒された。

すぐさま腹の上に鬼灯が乗っかってきて身動きが取れなくなる。



「マンネリ打破ってもしかして…」
「お察しの通りです」



にやり。

そんな擬態語が良く似合う顔で笑って。



「貴女、己と床を交わした経験はおありですか」



そんなのないに決まってる。



「奇遇ですね。私もです」



あったら逆に怖い。

帯に伸びる手を振り払うことはきっと容易なのだろう。

しかし実行に移そうと思う度、先程強く腕を掴んでしまった時のことが脳裏にちらついて、結局黒い打掛と深紅の帯が寝台の下に広がるのを見ているだけになった。



「何事も経験しておいた方が後々得ですよ」



この出来事が己の人生にどうプラスになるのか、一通り終わってもなまえには解明できなかった。






紅葉様へ捧げます。

入れ替わりネタは大好きなのですが未だ書いたことがなかったので、とても楽しく書かせて頂きました。

気に入って頂けたら嬉しいです…!

それでは、この度は企画へのご参加ありがとうございました。

20150205 かしこ



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