彼女は真面目なひとだ。品行方正、才色兼備、良妻賢母。まだ独身だけど。とにかく真面目で、きっとそれがいけなかったんだろう。


「…鬼灯さん」


夜中に突然部屋を訪ねるなんて普段の彼女ならまずない。ゆるりと掴まれた袖を見て、大体のことを察した。


「遅くに、ごめんね」


この言葉が、今の彼女に残された最後の理性だったらしい。

彼が返事の代わりとして静かに名前を呼んだ瞬間、彼女はぶつかるように抱きついてきた。何かがふっ切れたが如く、性急に唇を求められる。それに応じながら扉を閉め、後頭部に手を添えると首へ腕が回った。彼女の控えめな八重歯があたって少し痛いが構わず角度を変えた。

ようやっと彼女が息をすることを思い出した頃、もう一度名前を呼んだ。聞こえたのか聞こえなかったのか、彼女は無言で彼の手首を引っ張った。強い力である。引かれるままに寝台へ歩み寄り、押されるままにマットレスを軋ませる。


「…ごめん」


彼の顔の横に手をついて彼女は小さな声で言った。自身の襟元を掴んで乱暴に肌蹴るその行動とはかけ離れた、今にも泣き出しそうな声音だった。


「…いいんです」


謝らなくて。彼はそっと手を伸ばし、真っ白な頬に触れた。白というより青と表現した方が適切かもしれない肌を親指で撫でれば長いまつ毛が揺れる。それからまた噛み付くように口づけられた。





***
何年かに一度、彼女は"こう"なる。連絡もなしに彼の部屋を訪れ、普段の穏やかさが嘘かと思うほどひたすら肌の重なりを求めるのだ。そのうち疲れて動けなくなると今度は、


「で、今回は何徹目ですか」


それなりの広さの浴室で鬼灯は長い黒髪に指を通した。 彼女はただぐったりと、彼の肩口に顔を埋めている。時折短く鋭い吸気音が聞こえた。…泣いている。例の如く。


「…おぼえて、ない」


この返答もいつもと同じだ。覚えていられないくらい長い期間、眠っていないのだろう。

八百万の神々の中には、眠りを司る者がいる。明日を清々しく始めるために、今日の終わりに安らかな休息を。その人が休むに相応しい頃合いになると"睡魔"と呼ばれる眷属を派遣して眠りにつかせるのが主な役割だ。そして彼女は、眠りの神の元で働く睡魔である。昔は大多数の人間が暗くなったら寝ていたので眠りの管理も手間がかからず、睡魔たち自身の休息もちゃんと摂れていた。しかしここ数十年、文明の発展により夜更かしをする人や、夜起きて昼寝るという生活スタイルの人が増えた。人々の暮らしの変化に伴い睡魔たちの生活も不規則になっていった。その影響で、彼女は眠りを与える力を持ちながら極度の不眠症なのである。元々睡魔は寝なくてもある程度耐えられるものだが、それにしても限度がある。己の体が疲れ果てても眠れず、いよいよ限界に達した時、今日のような行動に出るのだった。


「だから転職なさいと前から言ってるでしょう」


数年に一度でもこんな姿を見るのは辛い。恋人なのだから尚更。そして彼なら再就職先くらいいくらでも世話できる。睡魔の能力を生かせなくなるかもしれないが、今よりは心の均衡を取れるだろう。それでも彼女は、自分が辞めたら周りに迷惑がかかると首を縦に振ろうとしない。心配する身にもなって欲しいと、自分も睡眠を削りがちなことは棚に上げて思う鬼灯であった。そんな彼の気持ちを分かっている彼女なので、こうしてさめざめと泣きながら謝ってくるのである。ほんとうに、真面目さが裏目に出まくっている状態だった。


「ごめんね、鬼灯さんだって寝てないのに、」
「貴女には到底及びませんよ」


出来るだけ優しい声で、とにかく安心させるよう努める。冷えつつある肩に湯をかけてやりながら鬼灯は思索を巡らせていた。彼女に言うのは後になるだろうけれど。


「なまえさん、明日は仕事休みましょう」
「え…?」
「上司には私から連絡しておきます」
「そんな…ダメよ、みんなが困っちゃう」
「はっきり言いますが、貴女このままだと死にますよ?いくら睡魔だからって限界というものがあるでしょう」


その方が周りに迷惑がかかるのでは?そうきっぱり言われ、彼女は押し黙った。すると、彼はふっと視線を和らげて彼女の頭に頬を寄せた。


「…貴女がいなくなるのは私個人としても嫌です」
「鬼灯さん…」
「だから、明日は休みなさい。いいですね?」


彼女の頬を両手で挟み、有無を言わせぬ口調で言うその目を見返して、勤勉なる睡魔はついに頷いた。







***
風呂から上がり、彼に差し出されたホットミルクを飲んだ彼女は、驚くほどすんなりと眠りに落ちることができた。明日休めるという事実と飲み物の甘さ、それにいとしい恋人の体温が彼女の心に余裕を生んだのだろう。糸が切れたように横たわる彼女を抱きしめれば、清潔な甘い香りが鼻腔をくすぐった。

明日は早起きしなければ。そう心の中で呟いて彼は目を閉じた。





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