感情というものは不必要だと昔教わった覚えがある。感情とは嬉しい、悲しい、苦しい、悔しいといったたぐいなのだそうだが、私にとって感情とはまさしくいらない、邪魔なものと同等になるほどいらなかったのだ。過去からサッカーを排除し、セカンドステージチルドレンが生まれる根本を消火し安定した現在を取り戻すべく動いているエルドラドに私は育てられた。マスターにとって、サッカーのひと試合一試合に確実に、圧倒的な点差で勝つことは基本の"き"の字にもあてはまらない。つまりは勝つことが常識であって負けるのは無きものであったのだ。
……一回だけ負けた試合があった。まだ幼かったころ、ベータたちが率いるチームと試合をした時だ。あのとき初めて敗北者という立場に陥り悔しいと地面に這いつくばった。悔し涙を流したかどうかは曖昧になっているが、そのときマスターはこう私に教えたのだ。
"感情を捨てろ、アルファ。余計なものがあっては勝てるという常識からいつのまにか外れていることになる。重い体より軽い体でプレイしたほうが楽であろう"
それからかもしれない。必要最小限の単語しか述べず表情は無いに等しい。驚くことだけはかろうじてできる程度まで進んでしまった。良いとも悪いとも思わないがメリットはあるために肯定的にとらえていたのだ。
「アルファ、様」
まっくらい廊下からは紅の人工的で無機質な光線が反射しているだけのように思われるが、真正面から声が聞こえてくる。
「アルファ様」
「そこに誰かいるのか」
「はい、ここに」
コツコツとかかとが床にぶつかり特有の音を立てながら徐々に近づいてくる。薄暗い中のモニターの光が嫌と言うほどに眩しく、少女の肌を不健康な白色に染め上げていく。ようやく姿を現したと思えばよく見知った顔である。
「名前か。私を呼んでいたな」
じっ、と頼りなさげに宙を泳がせる視線に無理矢理絡みつく。少女は、はっ、と息を呑んだあとおろおろと焦りはじめうつむいてしまった。
「はい……っあの」
きょと、と一瞬首をかしげなんだ、と聞き返すと頬を赤らめながらうつむきがちに言葉を紡ぎだそうと唇を尖らせた姿が映る。
……普段はなにも感じていない何の変化も見当たらない日常で、ぎゅ、と心臓あたりが締め付けられる気持ちになったのは初めての経験である。この少女にはセカンドステージチルドレンのように殊に特化した能力を持ち合わせているのか?しかしそれなら何故セカンドステージチルドレン側についているはずだ。なぜ我々のいるエルドラドに存在しているのか……。
「き、聞いていますか!アルファ様」
「……っ?ノー。すまないがもう一度繰り返してくれ」
私が考えを巡らせているうちにこの少女はいくつかの言葉を交わしていたらしい。聞き取るばかりか聞き流していたのはあるまじき態度であったと少々反省の色をあらわす。
「だからアルファ様は好きなお方がいらっしゃるのかなって……」
「ノー。そもそも名前は何を聞いているのだ?好きなお方?尊敬していると置き換えるのは可能か」
「いいえ、違うんです。リスペクトじゃなくてラブやライクのほう…」
大きく手を目の前でぶんぶんと振り英語を織り混ぜながら意味の違いを説明する。リスペクトという尊敬からなる好きではなく、ライクやラブといった所謂好意による好きを私が向ける相手は果たしているのだろうか。
「ラブやライクと感じると、どう心情や行動が変化する?」
私にはよく理解できないのだ、そういった感情がな、と小さくぼそぼそと付け加えるが、聞いた反応として驚くわけでも悲しむわけでもなく、ただとても軽めなため息をひとつついただけで知っていましたよ、と応答した。
「少しでもわかってもらおうと思いまして」
「本題に入ってくれ」
一度ぐっ、と唇を結び、思いきって話しだそうとしている名前の顔はさびしそうでかつさっきまでとは違う顔つきであった。
「そうですね、人を好きになったりするときは、きゅう、と胸が締め付けられた心地がするんです。その人の近くにいると鼓動が速くなったり。一分一秒でも多くその人の隣にいたいと思うし、大事にしたいし、されたいと思う。こんな感情がひとつ、あるんですよ?わたしたち人間には」
ふむ、と考えを整理するために顎に手を当て床を睨む。それではさっき感じた胸が締め付けられた感触はこのライクやラブといった類いの感情であるのだろうか。
「名前、私の方に歩み寄れ」
唐突に突きつけた命令に驚くことなくすんなりと承諾し、一歩一歩間隔が縮まっていく。真正面にきて何も感じないからもう一度だけ瞳と瞳をあわせ、じい、と見つめる。耐えきれなくなったのか少女が目を泳がせ始め、うつむいたとたんぎゅうぎゅうと心臓が押さえつけられる。これはつまりは名前の言っていた感情そのものなのだろうか。
「名前は今どういう状況だ」
「へっ?……や、あんまり見つめないでください……」
「心臓は速いか」
「さ、さぁ…」
「ノー。それは答えになっていない。答えろ」
ジリジリと距離をつめ、壁にぴたりとくっついた少女は全てアルファの影によっておおいつくされた。
「は、速いです」
「胸が締め付けられたのだ。ぎゅう、とな」
「わ、わたしはそんなこと決してないですから!アルファ様に対してなんて…!」
「違う、私がなっているのだ」
信じがたいというめつきで思いきり見つめられ、視線と視線とが混線しあい、お互いをからめあってはなさなかった。
「だから何とおっしゃられたのですか?」
「ラブかライクではないか、この感情が。……名前はなんというのだ、この感情の」
あ、い、と声にならないようなやっと絞り出したようなか細さはいっそう心を締め付けた。
「愛、か」
こくん、と首を縦にふり愛とは与え与えられのギブアンドテイクであるという説明までもが加えられた。だんだんとわかってくる様々な感情。私の聞くべきことはこれで最後のようだ。
「それでは、私が何をあげれば、名前は私に愛をくれるのか」
いたって本気でいったつもりであったが、冗談を言えるのですね、と本気でとらえられず冗談ととらえられ、最終的には笑われてしまった。ぷはっ、と控えめに吹き出す音が聞こえる。
「こんな無表情でそんなこと言われたら冗談でも本気と勘違いしてしまいます」
肩を小刻みに震わせながら笑う姿は笑われているにも関わらず不思議と嫌な気持ちがしなかった。
「冗談じゃない、といったなら」
「へっ?」
私の言葉の切れ端にみるみる頬が赤くなっていく名前は、そうやって言うことができるなら容易いことじゃないのでしょうか、と途切れとぎれに呟いた。


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