「恋人の好きな体の部位を1つ挙げなさい」と言われれば、俺は即答できる自信がある。
しかし、その部位に対してフェチズムを持っているとか、その部位以外に興味が無いというわけでは決してない。
ただ、俺には、あの人の「そこ」に魔力でも宿っているのではないかと疑ってしまうほど…魅力的に映ることがあるのだ。
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「日吉…いるかな?」
そう呼びかけられたのは、ホームルームが長引き他の部員より遅れて部室入りし、ユニフォームに着替えていた時だった。
「何でしょうか」
着替えの手を止めて声の聞こえた隣の部屋に顔を出すと、制服のままデスクに向き合っていた滝さんと目があった。
「どうかしましたか?」
普通この時間であれば、彼は既にユニフォームに着替えているはずである。
それに、普段は穏やかな笑みを崩さない彼が、今は眉を下げてすっかり困ったような表情をしている。
違和感を感じながら、俺は滝さんに声をかけた。
「ごめん、説明は後でするから!ちょっとでいいから手伝ってくれないかな?」
「あ、はい」
滅多に見ることのない滝さんの焦った様子に、俺は即座で返事をした。
「ほんとごめん。ひよ、アップにどれくらい欲しい?」
「メニュー短縮すれば15分くらいで済みます」
「あんまり時間ないね…了解。そこの棚に帳簿あるの分かる?」
「あ、はい!」
「それ、去年から遡って10年分を出して此処に積んでもらえないかな?」
滝さんが指したのは、氷帝テニス部の会計処理関係の書類が陳列された棚だった。
普段は全く気にもしない棚だが、ここも歴史のある部であるがゆえに過去の書類が多く、この棚にそれらが全て綺麗に整頓されて並べられている。
歴代の会計係も、滝さんのような几帳面で優秀な人が務めてきたのだろうという事が容易に伺えた。
「古いのから積めばいいですか?」
「うん、頼む」
滝さんは俺に指示をしながら、何やら手元の書類と必死に向き合っている。
棚から帳簿を古い順に、滝さんのデスクに積み上げてゆく。
もともとかなり整理された棚であったためか、その作業は5分程度で完了した。
「滝さん、終わりました」
「あ、ありがと!ほんと助かるよ〜!」
あまりの剣幕に質問する機会を失っていたが、こちらの作業が終わったことで少しばかり滝さんの表情が明るくなったので、状況を伺うことにした。
「そんなに焦って、どうしたんですか?」
「実は、今日の朝急に生徒会からテニス部の過去の会計書類の仕事頼まれちゃってさ…1日時間見つけてちょこちょこやってたんだけど資料が部室にあるから大事な部分は書けなくて…」
「それは…大変でしたね…」
「しかも、あと30分でこれ、出さなくちゃいけないっていうねー」
「無茶苦茶ですね。…大丈夫ですか?」
「ひよが手伝ってくれたからだいぶ楽になったよ。あとは計算するだけだから」
そう言って滝さんはデスクの引き出しから電卓を取り出した。
「そんなわけで俺、今日部活遅れるから…手伝ってくれてありがとう!時間貰っちゃってごめんね」
「いえ、大丈夫です」
「あとは一人で出来るから、アップ行っていいよ」
「わかりました」
そう言って、滝さんは脇目も振らず再び書類に向き合っていた。
左手で電卓を操作し、打ち出した数字をすぐさま右手のペンで書類に書き写してゆく。
その作業の素早さ、正確さはあまりに華麗だった。
いつしか俺は、アップの事など忘れて滝さんの手元に魅了され、見とれてしまっていた。
細く長い指が、繊細なタッチで電卓のキーを打つ。
利き手ではない指を無駄なく、かつスピードを落とすことなく正確に数字をはじき出す左手。
そして5本の指を統制するしなやかな手首。
それらのどれもが、美しく計算し尽くされた方程式かなにかのようだった。
「…よし…」
「日吉…?」
「あ、はい!」
滝さんの声にふと我に返ると、俺の視線は滝さんの手を完全に凝視していたことに気づいてしまった。
当の本人はそれに気づいているのかいないのか、ともかく不思議そうな目でこちらを見ている。
「…っ、すみません…!失礼しました!」
そんな滝さんの視線に堪えられずに、俺はその部屋を出た。
顔が熱い。
恥ずかしい。
何に対しての羞恥なのか、そんなことは判らなかった。
けれど、時計を確認してみればレギュラーの集合時間まであと10分しかない。
消化不良の熱を持て余したまま、俺はアップのために部室を飛び出した。
無心で練習に打ち込んでいればきっと、少しは頭が冷えていることだろう。
あの人が部活に戻ってくる、その頃までには。
「恋人の好きな体の部位を1つ挙げなさい」と言われれば、俺は即答できる自信がある。
しかし、その部位に対して特別な興味があるというわけでは決してない。
ただ、あの時の俺には、彼の「手」に不思議な魔法でも掛かっているように見えたのだ。
2012/08/01
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