(47話ネタバレ)
(虐待注意)
こんな事をして、何が楽しいんだろう。くつくつと笑う彼の後をぼんやりと追いながら、霞む頭でそう思った。
わたしの前を歩く彼は、わたしの所属するアカデミアの人間であり――わたしを、こんな人間へと仕立て上げた張本人、ユーリ。そして、そんな彼に追われる一人の少女は、かつてわたしが所属していた遊勝塾の大切な仲間、柊柚子。
……本当は、こんな風に彼の後ろを歩いている場合ではない。それは充分すぎるほど理解している。わたしだって、柚子ちゃんを救出し、あの紫色から今すぐに逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
けれど、そうもいかないのが現実というもの。
所詮わたしは無力な兵士。彼に、ユーリによって、そう形作られた哀れな奴隷に過ぎない。彼に逆らったところで取れる選択肢は一つ。捕まり、そして、苦しめられる道だけだ。
彼はいつだって、わたしを苦しめようとする。今だってきっと、自分の仕事内容と、わたしの友好関係を理解した上でこんな事をさせているんだ。わたしに後を歩かせる必要なんて無いのに、こうして、わたしに自分の無力さを改めて噛み締めさせる為、こんな事をさせている。
まるで、痛みを刻み込むように。
頭上を飛ぶ、狂気に満ち溢れた禍々しい竜は小さく呻き声を上げる。その言葉に、何か意味はあるのだろうか。そう思い顔をあげれば、前方を歩くユーリは唐突に足を止めた。
「……なにかありました、か」
「何かあったか?ああ、あったとも」
そう告げて、彼は嫌な笑みを浮かべる。少しだけ眉を下げたわたしを、如何にも面白いという顔のまま彼は思い切り蹴り飛ばした。お腹の潰れるような感覚がわたしを襲う。
身体を浮かせ少し遠くへと飛ばされたわたしを、彼は変わらず愉快とでも言うような表情じいと見下ろす。驚きと痛みで乱れた呼吸は、早急に元に戻るわけではないようだ。
「っぐ、ああ!う……ぅ…」
痛みによる喘ぎも、彼にとっては興奮材料に過ぎないのだろう。ひゅるひゅると音を漏らす喉に、わたしはこれ以上危害を加えられまいと咄嗟に両手で喉を覆い隠した。
腕を潰されても構わない、足を潰されても構わない。ただわたしが恐れるのは、大切な人の名前を呼べなくなる事だけ。その姿が見えなくとも、もう大切な人の事さえ考えられなくなっても構わない。
ただ、わたしの声を聞いてくれればそれでいい。だからわたしは、自分の身体を必死に守る。
「君の様子を観察するのは思ったより楽しくなかったよ。仲間だったのに、君って思ったより冷たいんだね」
「わたしが、いま従う、のは……、ユーリ、だけ」
「ふむ、中々良い奴隷根性だ。そういうのは嫌いじゃないよ」
「……ありがとう…ござい、ます」
朦朧とする意識の中、ぼやけた視界に紫色をどうにか捉える。ピンク色は見当たらない、柚子ちゃんは何処かへ逃げられただろうか。
今のわたしが出来るのは、彼に逆らわず、彼女の逃げる時間を少しでも作ること。わたしの行いなど、雀の涙にもならない事は分かっている。それでも、無いよりはましだと思いたい。わたしは、これ以上誰かが傷付く姿を見たくないから。
氷の壁に身体を預け、浅い呼吸を繰り返すわたしに追い討ちをかけるように、彼はわたしの喉に足をかける。庇う両手を無視してわたしの喉を圧迫するその姿に、呼吸さえ整える余裕はない。ただただ広がる苦しみだけが、わたしを暗闇へと突き落とす。
「やっぱりただ観察するだけじゃ面白くないや。君は、僕の手で苦しめられている方がずっと良い」
告げられたその言葉に、わたしはただ絶望する。
――この果てしない闇に、帰ってきてしまった。
そんな些細な、けれどわたしを苦しめて止まない世界がまた動き出す。
何の為に此処まで来たの。あの日々から逃げられると思ったのに。素良と、一緒に居られると思ったのに。
霞む視界の中、一筋だけ涙が溢れる。
おかえり、と囁く彼が、その龍と同じよう禍々しい何かを孕んでいるような錯覚を感じて、わたしはゆっくり目を閉じた。
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