(飽きた)
紫雲院菟雨という女について話をしよう。
彼女は非力すぎる存在でありながら、その身に相応しくない立場へと立ち、何度も何度も、繰り返し"戦場"という惨劇をその目に焼き付け続けた。
怯え、震え、逃げ出したいと何度も何度も思いながらも、それを他者に訴える事はない。無力なのを自覚していながらも、他者に頼るという選択肢を選ぶ事の出来ない正真正銘の無力な――愚図、だった。
そんな愚図だとしても、彼女の周囲はいつだって彼女を愛していた、あの少女は愛に囲われ幸福に生きていた。その愛がどれ程歪んでいようと、彼女はいつでもそれを受け入れていたのだ。
だから僕は、その愛を、ほんの少しでいいから分けて貰えないかと思ったんだ。
……ただ、それだけの事。
目の前を通り過ぎる長い水色の髪に指を通せば、彼女は何度でも後ろを振り向き首をかしげる。
その髪を引く行為に彼女が恐怖を抱くまで、俺は何度も何度も同じ行為を繰り返した。
ひくりと震える喉を撫でれば、恐怖で声を発する事も叶わない。つう、とその髪を小さく引けば、大袈裟なほどに体を震わせる。
無力すぎた少女はそんな僕の些細な行為にさえ、抵抗しようとも思わない。思えないの方が、正しいだろうか。
大切な存在を追うために廊下を走る彼女はそう、いつだって僕を見てはいなかった。
だからしたんだ、僕だけを見るように。
その黄緑色の眼に、僕だけを映すよう、枷をつけた。
たった一つ、言葉という重すぎる枷を。
彼女を明確に欲しいと思ったのはいつだったか、今ではそんな過去の話微塵も記憶に存在しない。
気づけば欲しいと思っていた。そうしたら僕の手の内に彼女は存在したんだ。
その黄緑色の丸い眼を僕だけに向け、不思議だとでも言うようにただぼんやりと僕を見る。
彼女はそういう存在だ。愛に生かされ、人を疑う事を知らない。
他者に向ける物と同じの、柔らかいその微笑みに僕はただ苛立ちを覚える。
俺が欲しいのは、それじゃない。……あの双子の兄に向けるような、心の底からの幸福な笑みが欲しかった。
「菟雨、僕が怖いかい?」
微笑みながら、僕はそう告げる。目の前にへたり込んだ少女は、不安そうに僕を見上げた。
閉じられた環境で二人きり、となれば、まあそういった表情も無理はないだろう。
くす、とほんの少し笑みを浮かべれば、大袈裟なほどに体を震わせ声を漏らす。
来ないでください、やめてください。そんな、否定するような言葉ばかりを繰り出しては目を伏せる。
無力なその姿は、ただ僕の加虐心だけを煽るものだと彼女は気付いているのか否か。
意図して行っているのだとしたら――それはそれで、好都合なのだけれど。
笑みを浮かべる事さえ出来ない彼女の存在価値は、一体なんなのだろう。僕は其処まで考えて、思考を止めた。
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