灰色のカーテンを被せたような、土砂降りのとある梅雨の日。傘を差し、ユートと帰り道を歩く途中、倒れた一人の幼い子供を発見する。
――人の良いユートはあの日、直ぐに交番へ連れて行こうとその子供を抱きかかえ、俺に自らの傘を突き付けた。
「荷物持ちは御免だぞ」
「ならばお前が彼女を抱えるか?」
「それこそ御断りだ」
「ならば、早く持て」
強要されたそれに、不快感は募るばかり。だが、そのまま抵抗して二人揃って濡れ鼠になるのもまた不快。
状況に背を押され、荷物持ちを余儀なくされた俺はただ眉を顰めその子供を見つめ続ける。
心配そうな表情のユートは矢張り、直ぐに他者の心配ができる優しい人間なのだろう。
それに比べて俺は如何か。いや、俺は俺だ。それ以上でも、それ以下でもない。
二人を濡れないよう傘で守るだけの、単純な作業。ただそれだけの事に募る理不尽な不快感は、俺の脳内で息衝き、塒を巻いて居座り続ける。
……少しでも早く交番に到着すれば良いのに。
――あの日の俺は、ただそれだけを考え続けていた。
□
「――菟雨…」
半ば喧嘩別れのように家を飛び出した末の妹は、俺が目を離した短い隙にその頼りない身体を眩ませ、何処かへ消えてしまった。
ユートも外へと出ている今、この空き家は本来の姿へと戻り、音も無く明かりも無く、ただその場に佇むのみ。
幼すぎる体温が手の内にない事に、ただ不安だけが募ってゆく。
もしあの非力な存在が、心無い人間に襲われでもしたら。他人を疑う事のできない弱い存在が、騙され、心に傷を負いでもしたら。
もしこの場に瑠璃が居れば、恐らく過保護だと散々な事を言われるのであろう。だがしかし、それを容認して過保護に守り続けたのもまた彼女の肯定が在ってこそ。
詰まる所俺たち兄妹は、末の妹が大切で仕方が無かったのだ。菟雨が居ない状態で瑠璃を取り戻したとしても、瑠璃は恐らく一人で菟雨を探しに行くだろう。
「……何故、俺から離れて行くんだ」
自らの拳を見つめても、答えが返ってくるわけでは無い。そんな事は、痛い程理解してる。
……しているからこそ、これほどまでに無力な己に腹が立つ。
守りたいからこそ、必ず守れる場所に置いて置いたのだ。それを、何故拒絶する必要がある?俺の行動は、何か間違ってでもいるのだろうか。
瑠璃と、菟雨と、ユートと、四人揃いで笑う日がただ何処までも愛おしい。其れと同時に、どうしようもない程苦しくて仕方がない。
何故俺は、あの日、瑠璃を守る力を持っていなかったのだろうか。もしこの場に瑠璃が居れば、菟雨まで失うことはなかったのではないか?
考えれば考える程、過去の己の非力さに憎しみが募ってゆく。
故郷を、家族を、親友を、妹を、全てを守れる程の力が、俺には必要だった。
だがしかし、あの日求めたその力は――今、この手の中にある。
「もう、何一つとして失うものか」
拳を固く握り締め、菟雨の消えた扉を睨む。
……お前はただ、俺に守られ続ければ良いんだ。
抗うな、離れるな、受け入れろ。幼い雛鳥は、ただ幸福のみを与えられればそれで良い。
もう二度と、お前を外界という危険な世界に触れさせたりはしない。
…この感情は、歪だろうか。
「――菟雨」
雨の気配など少しも感じられない筈なのに、何処か遠くで――酷く煩い雨音が、耳鳴りのように鳴り続けていた。
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