「お前は、お前自身の価値を理解していない」
あの家を出る前に聞いた、お兄さんの言葉が頭から離れなかった。
もう何時間も経過した筈なのに、新しい景色は新鮮な筈なのに、どうしてこんなに、同じ言葉ばかり繰り返されるの?どうして、消えてくれないの?
お兄さんの反対を振り切って、無断で外へ飛び出した今、わたしの疑問に答えを与えてくれる人は何処にもいない。
人の流れに逆らうことも出来ず、そのまま身を任せて運ばれて、わたしは気付けば迷子になっていた。
カラフルなお店や、塾の広告。大きなビルに、たくさんの車。人の笑い声や子供の泣き声。昔のハートランドにあった沢山の"幸せ"が、ここにはまだ山のように存在して。
少しだけ、帰りたいと思ったんだ。みんなで一緒に笑っていた、昔の、幸せなハートランドに。
お兄さんと、瑠璃お姉ちゃんと、ユートさんと一緒に笑ったあの頃の、わたし達の街。思い出したらどんどん胸が苦しくなって、涙が止まらなくなってしまう。
こんな場所で泣いちゃ駄目、顔を上げなきゃ。
そう思い、袖で強引に目尻を拭った瞬間、わたしの身体は強い力で引かれてしまった
「――だ、れ」
「泣くなら、こっち」
水色の綺麗な髪を結えた、少女にしては低い声を持った一人の人。
困惑するわたしに見向きもせず、ただ、わたしの腕を引いて何処かへ向かう。
ああ、これって、誘拐?だとしたらとってもまずい。逃げなきゃ、お兄さんに迷惑がかかってしまう。
逃げなきゃ、早く、逃げ。
「僕のこと、誘拐犯か何かだと思ってる?」
あ、れ。
「道のど真ん中で泣いてる女の子を誘拐する程、僕も外道じゃないんだけど」
拗ねたように頬を膨らませるその人に、わたしは言葉を発する事が出来なかった。
水色の髪、黄緑色の瞳。そっくりな顔立ちに、差のない身長。
まるで、鏡に映った自分を見ているような錯覚。
「あなた、は」
思わず漏れた疑問の声に、彼は少しだけ眉を顰める。
だがそれも一瞬、瞬きをした瞬間彼の表情は笑顔に戻り、何でもないように「紫雲院素良、素良って呼んで!」と、当たり障りない自己紹介を行ってくれた。
わたしの腕を掴んだままの彼に困惑しながらも、わたしはゆっくり、名を名乗る。
「黒咲菟雨……です」
「……菟雨?」
「…は、い」
わたしの名前を聞いた瞬間、彼は難しそうな顔をする。何か問題あったのだろうか、けれどわたしの名前は黒咲菟雨で、ほかには何も無いわけで――ええと、わたし、どうしたら良いんだろう。
薄暗い路地裏で、紫雲院さんとわたしはただ立ち尽くしたまま。彼は何か考えているようで、先ほどから微動だにしない。どうしたら良いんだろう、わたし、そろそろ行かなきゃお兄さんに見つかってしまうかもしれないのに。
「あの、紫雲院さん、わたし」
「素良って呼んでって、言った」
「素良、さん……?あの、わたし…」
「――素良」
「あ…」
険しい顔で、彼はわたしの腕に力を込める。
痛いやめて、痣が出来ちゃう。そんな事を思っても、恐怖に怯えたわたしの身体は上手に言葉を発せなくて。
痛い、痛い、痛い、怖い。ただそんな、単純な言葉がわたしの頭を埋め尽くす。
どうしてこんな事をするの、どうしてわたしなの。そう思って目に涙を浮かべれば、彼の顔にはとても幸せそうな笑みが浮かぶ。
「……ああ、やっぱり僕の菟雨だ」
――やっと見つけた。
狂気を孕んだその笑みが、ただただ恐ろしくて。
貴方は一体何者なの。その疑問に答えてくれる人など、居る筈がなくて。
乱れる呼吸をそのままに、わたしは全力で彼を振り払う。
逃げなくちゃ、彼に捕まったらいけない!
脳が出す警告に頷き、わたしは息を切らして走り出す。目の端から零れる涙が、キラキラと光って地に落ちた。
「――待って、待ってよ、菟雨!」
知らない、知らない!わたしは貴方を、知らない!逃げなくちゃ、早く早く!
息も絶え絶えに、わたしはようやく人通りの多い場所へと抜け出す。息を整える余裕はない。急いで彼に見つからない場所まで逃げなければ。
酸素の足りない頭で、わたしは必死に考える。お兄さんやユートさんは、ここは安全な場所だと言っていた。じゃあ、彼は一体なんなの?どうしてわたしの名前を聞いた瞬間、あんな――。
狂気に満ちたあの表情を思い出せば、ぞくりと背中に戦慄が走る。
外の世界がこんなに恐ろしいなんて、わたし、知らなかった。お兄さんが頑なに外出を禁じたのが、こんな理由だったなんて。
帰ったら謝らなくちゃ。今まで我儘を言ってごめんなさいって、それで、大切にしてくれtありがとうって、きちんと、全部、全部……。
「…会いたい、なあ」
意志の強い綺麗な色をした、あの目がこんなに恋しくなるなんて。
覚束ない足取りで、わたしは、ゆっくりと前へ進む。
お兄さんに会うために、ユートさんに会うために、水色の彼から逃げるために。
沢山の理由が重なったあの廃墟へ、わたしは、涙を拭いながら歩みを進める。
わたしの、いまの、大切な帰る場所へと。
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