「あおいろの、め」
あの子は、一言だけそう呟いた。まるで何かから逃げるように――というのは、僕の考えすぎだろうか。
菟雨ちゃんの全身に付けられた傷をそっと撫でれば、菟雨ちゃんは少しだけ身じろぎをする。けど、抵抗はしない。今回は名前を呼んでも大丈夫。ちゃんと、全部消したから。
痛い、よね。きっと沢山骨だって折られたんだと思う。けど、菟雨ちゃんは少しも抵抗なんてしなかった。この傷が、全てを物語っている。
どうしてこんな事をするの、そう聞いても、答えてくれる人はいない。そもそも、答えるとは思えない。
「……菟雨、ちゃん」
「なあに、れいらくん」
何もない無機質な部屋に、菟雨ちゃんの声が響く。冷たい、まるで、感情のない機械のような声。
どうしてそんな声を出すの、前みたいな、僕の好きな菟雨ちゃんの声が聞きたいのに。
「……菟雨ちゃん」
その名前を繰り返しても、菟雨ちゃんの対応が変わる事はない。同じように返事を返して、僕の名前をぼんやりと呼ぶ。
さみしいって、少しだけ、思う。けど我儘は言えない。菟雨ちゃんをこうしたのは、僕だから。
「菟雨ちゃん、見て、僕の目」
「……きみどり、じゃ、ない」
「……そう、だよ」
「……」
「…僕の目、いらない……?」
「それは、あなたの、目」
――貴方は、あなた一人で全部が見える。
難しい言葉を残して目を閉じる。菟雨ちゃんは、目を開けるのが少しだけ苦手。だから、よく目を閉じたままにするの。
壁に凭れて、小さく呼吸をする菟雨ちゃんの姿は、まさに弱者そのもの。虐げられる存在、いいや違う、それは過去のお話。
ここには、菟雨ちゃんを虐める人なんていない。菟雨ちゃんが苦しむことなんてない。
たった一つの事さえ思い出さなければ、菟雨ちゃんは、こうして僕と幸せになれる。
菟雨ちゃんは、僕だけの菟雨ちゃんになる。
「……菟雨ちゃん、あったかい」
「……」
こうやって、菟雨ちゃんを抱き締めても、菟雨ちゃんが僕を見てくれることはない。知ってるんだ、もう、何度も同じ事を繰り返してるから。
僕のこと、見て欲しい。けど、菟雨ちゃんが幸せになってくれるのが、僕にとっては一番で。
兄さまは、菟雨ちゃんを研究材料としか見ていない。同じ色のあの人と、同じ認識。それはやっぱり、仕方のないことかもしれない。
けど菟雨ちゃんはあの人とはちがう。菟雨ちゃんは優しい子。だから駄目、菟雨ちゃんとあの人を、一括りにしちゃいけない。
菟雨ちゃんは僕が幸せにする、兄さまにも、あの人にも渡さない。絶対に、絶対に。
「……そ、ら」
「菟雨、ちゃん」
「あいたい、かえりたい」
「……」
「素良のところに、かえして」
「――だめ」
短く告げ、僕は菟雨ちゃんの唇を塞ぐ。
小さくて桃色をした、可愛い唇に僕の唇を無理やりおしつけて。菟雨ちゃんは、凄く驚いた顔をしてる。
どうかな。あの人のこと、忘れた?僕だけを、みてくれる?
驚きで目を見開いたままの菟雨ちゃんは、抵抗もできないで小さく震えてる。こわいよね、僕も少しだけ怖いよ。お互い様だね、ぼくたち、似てるね。
顔を青くした菟雨ちゃんの頬をそっと撫でれば、小さく口を開けて言葉を呟く。
「いや、やめて、こわい」なんて、抵抗にもならない言葉。
「素良、あ」
その名前が出るたび、僕はイライラしてしまう。けど怒らないよ、僕、菟雨ちゃんが幸せになるためにこうしてキスしてるんだもの。
揺れる水色の髪が、キラキラしてとっても綺麗。
舌は入れないで、ずうっと唇だけを重ね合わせる。菟雨ちゃんは怖がりだから、えっちなことはまだしないよ。
「どこかに行こうと、思わないでね」
放心状態の菟雨ちゃんを抱き締めれば、少しだけ身を固くして、震え始める。これも抵抗、なのかな。
菟雨ちゃんの幸せのために、僕はいろんな事をする。菟雨ちゃんが悲しむ事は、したくないから。
「そら、たすけ」
言わせない。
菟雨ちゃんが幸せになるために、あの人はいらない。菟雨ちゃんの世界には、僕だけでいい。それが一番の幸せ。
「そら」
手の届かない場所に、希望なんて抱かせない。もしも抱いたのなら、全部、忘れさせるまで。
繰り返せば、菟雨ちゃんは幸せになれる。僕だけをみて、僕に笑いかけて、一緒にお話しして、キスをする。そんな、僕にとって菟雨ちゃんにとって、お互いが幸せになる世界が。
ある、筈なんだけど、なあ。
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