(兄の日ネタに便乗できなかった)
「ねえ菟雨知ってる?今日って兄の日なんだって」
ぽたぽたと雨の降る、6月6日のアカデミア。傘を差しながら花壇の前を歩く素良に、同じ色の傘を差したわたしは何も言葉を返さなかった。だってその声色は、わたしに語りかけるものではなかったから。
自問自答。何も求めていない言葉に何かを与えても、帰ってくるのは不満だけ。わたしはそれを痛いほど理解していたし、事実痛い思いをして学んだのだから無駄な事はしたくなかった。
だから、素良は今、多分機嫌が良い。ぬかるんだ土のせいでブーツが汚れても、スキップをやめない程だ。
「なんで6月6日が兄の日なんだろうね。まあ別にどうだっていいけど」
「梅雨の時期だからじめじめしてる。やだなあ、髪の毛ぼさぼさになっちゃうよ」
「全く、何処にあるんだろう?自主練サボってまで見に来たのに、全然到着する気配ないよ」
素良の不満そうな言葉が、二人だけの花畑に広がってゆく。雨音で掻き消されてあまり大きくは聞こえないけれど、それはやっぱり独り言にしか聞こえない声色だ。
素良は何を探しているんだろう。何が見たいんだろう。わたしが分かるのは、朝、突然腕を引かれて連れ出されたという事実だけ。わたしは素良に
、何も教えられていない。
昨日から降り続ける雨は、切れ目の一つも覗かせずに今も泣き続けている。
わたしは梅雨が嫌いだし、雨も嫌い。まるで泣いているようだから。自分まで、泣きそうになるから――なんて言うと、変だろうか。
それでも、雨というのは人の気分を悪くさせる。精神的疲労も溜まりやすくなるし、それによって些細なミスも多発する。
だから雨はいけない。人の迷惑になる。良いことなんて、何もない。
「菟雨、ちゃんとついて来てる?」
「う、うん」
「この辺り広いから、迷子にならないでよね」
「……うん…」
手を握られない事に違和感を感じながらも、わたしは必死に傘に隠れた素良の背中を追いかける。
雨がいけない理由が、また増えた。遠くなる距離は、どんどんわたしを苦しめる。
ぬかるんだ土も煩い雨音も、気分の悪さも遠い距離も全部が嫌い。雨なんて大嫌い、まるでわたしから素良を奪うような雨が嫌い!
「……」
でもそそんなこと思ったって、どうしようもない。わたしが雨を嫌いになった所で、何も変わらないんだ。わたしの心が曇るだけ、わたしが一人で傷付くだけ。
「……ばか、みたい」
吐き出すように呟いた言葉は、雨音に掻き消されて誰の耳にも入らない。わたしの耳にすら入らないか細い声は、使用済みの空気の塊だ。
言葉にした筈なのに、音にすらならない。頭の中で意図しても、吸い込んだ空気を"言葉"として吐き出すことを、わたしの身体は拒絶した。
前を歩く素良の姿が、なんだか遠く感じてしまう。さっきと変わらない距離なのに。わたしは一度も、足を止めていない筈なのに。
素良はいつだって先を行く。前を歩いてわたしを置いてく。いつだってそう。一人ぼっちで怖くて、泣き出した所でようやく素良はわたしの腕を引っ張るんだ。
わたしが一人で歩けないのを、素良はよく知ってる。いつだって分かってる。
「もう随分歩いたのに、まだ着かないの?本当にあるのかなあ」
ああ、また独り言。
わたしがいるのに、まるで居ないように扱って。
どうして?わたしじゃいけないの?わたしが見えていないの?
そんな筈ない。違う。素良は酷い人じゃない。わたしは分かってる、これが最善なんだって分かってる。
それなのに、そう思えば思うほど、怖くてこわくて仕方がない。
手が震える。頭が痛くなる。息が苦しくなって、視界がぼやけて、雨がわたしの頬を撫でて、殴って、身体が重くなって歩けなくなって――素良が見えなくなる。
だから雨はいけないの。頭がおかしくなる、気分が悪くなる。だって、わたしから素良を――空を、奪うから。
「菟雨」
「そ、ら」
「菟雨、今何考えてる?」
「……そら、の…こと」
「うん、なら大丈夫。菟雨は歩けるよ」
「……う…ん…」
振り向かずに告げられた、素良の言葉。
冷たいけど、優しい声色。わたしのことを信じている言葉。励ましの、安全の、肯定の、全ての詰まった素良の言葉。
前を向いて歩く素良がくれる、わたしの為の言葉。わたしだけの、わたしだけに与えられた、大切なもの。
雨に濡れた頬が、熱い。痛かった筈の頭は、痛みを失ってふわふわする。素良に肯定されたから、わたしはもう怖くない。他のことを考えなくていい。
ぬかるんだ土を踏みしめて、一歩進める。
横に倒れた傘を持ち直して、二歩進める。
怖くない、何も怖くない。わたしには素良以外必要ない。
追いつかなきゃ、素良の後ろを歩かなきゃ。
三歩進んでい、四歩進んで、歩いて、歩いて、たくさん歩いて、素良の後ろを歩き続ける。素良が何処に向かおうと、関係ない。わたしは素良の後ろを歩く。それだけ。
素良についてくの、素良と一緒なの。他のものなんて、必要ない。
「菟雨ってば、馬鹿だなあ」
「……うん」
「……紫陽花探しも飽きちゃったし、帰ろうか」
「……うん」
≫
back to top