「一人で立てたのなら、きっと、幸せ」
吐き出すように呟いた言葉に、彼は顔を歪ませる。
弱者が偉ぶって、こんな傲慢な事を言ってごめんなさい。そう小さく謝罪すれば、「そうではない」と言葉を返された。
冷たい風が頬を通り過ぎる。今は何時頃だろう、早く帰らなければまた素良に怒られてしまう。
そう思い少しだけ憂鬱な顔をすれば、わたしの腕は彼の強い力で掴まれた。
思わず痛いと声を上げるが、彼の耳には少しも入っていない様子。どうして、こんな事をするの。小さく身体を震わせ、ただ何も出来ずにわたしは彼を見上げる。
「貴様は、鳥籠が開いていても逃げようとしないのか」
「逃げ方も、愛し方も知らない」
「救いの手が差し伸べられてもか」
「……手なんて何処にも、ないよ」
「――此処に」
ただ一本だけ、此処にあるだろう。
意志の強い、力のこもった声。驚きと恐怖でわたしが瞳を揺らせば、彼はその綺麗な目を細める。
「逃げ出したいと思うのなら、全ての機会を逃すな」
お前が望めば、その腕は俺が引く。
告げられた言葉に、わたしは抵抗すら碌に出来ない。此処から逃げ出す?逃げ出せるの?少しの希望を孕んで全身の力を緩めるが、あの水色を思い出してわたしは再び顔を強張らせる。
わたしには素良がいる、わたしの居場所は素良の隣だ。
わたしが望むのは、素良の隣で、自分の意志で素良を愛すること。そう、きっとそう。
素良がいないと何もできないわたしが、素良の為に何か出来るようになる。そんな夢を、見ている。
所詮は、夢かもしれないけれど。
「自らの意志を告げた癖に、まだ奴に縋るか」
その言葉に感じたのは、憐れみ。
眉を下げてわたしは全身の力を抜く。抵抗なんてする気は始めからない。
わたしは、縋っているのだろうか。依存しているのだろうか。
素良と一緒が普通だった。今までも、そしてこれからもそれが普通だと疑いもしなかった。
「お前は、異常な程他者に依存している」
わたしは、そんなに、異常、なのかな。
掴まれた腕に、力が込められる。痛みで顔を歪ませるが、彼はそんな事御構い無しに言葉を続ける。
「気付け。お前達の間にあるのは」
――愛などという、綺麗なものではない。
ああ、例えるならば、甘すぎるコーヒーを口に含んだような不快感。
吐き出し拒絶する事も出来なければ、飲み込み受け入れる事も出来ない。
頭の中でぐるぐるとまわる不快感と、言葉にならない思いの数々。
わたし達の間にあるのが愛じゃないのなら、わたしは、いままで何を信じてきたの。
「うそ、うそだ」
「虚偽を信じて自滅を望むか」
「ちがう、だって素良はうそなんて」
「真実を知ってもか」
「そんなの、そんな、だって素良は!素良は、どんなに酷いことをしても嘘なんて」
「まだ分からないのか!?」
「素良は嘘なんかつかないもの!!」
大きな声でそう叫び、わたしは彼を振り払う。驚きで動きを止める彼を怯えたまま見つめれば、彼はわたしに手を伸ばすのを止めた。
素良は嘘なんかつかない。いつだってそう、わたしが勘違いするから悪いんだ。変な風に思うから、いけないんだ。そうだ、きっとそう。
顔をあげれば、悲しそうな顔をする彼の姿。けれどそれは一瞬、直ぐにわたしを睨みつけ――デュエルディスクをセットした。
「交渉は、決裂した」
残念だ。
そう呟いて、彼はカードをドローする。危ない、わたしも戦わなくちゃ。そう思っても、思うようにディスクがセットできない。どうして、わたしは、こんな重要な時に何も出来ない人だったの?素良がいなくちゃ、こんな単純なことすらわたしは一人で出来ない。
――素良、たすけて!
そう思いながら、わたしは入り組んだ狭い路地を必死で駆け抜ける。彼の召喚した"レイドラプターズ"の甲高い鳴き声に不安感を煽られながらも、わたしは足を止めようとはしない。
捕まったら、わたしだって殺される。同じ事をした、同じ事をされたって文句は言えない。
弱者が弱者を笑う世界、所詮はわたしも弱い生き物。
息を切らしても、足がもつれても動きを止めることはない。素良に付けられた傷が痛んでも、彼に掴まれた腕が痛くても、わたしは、走り続けなくてはいけない。
夕日も沈みかけている、茜色の街の光をわたしはただ追い求める。そうだ、ここを抜ければ大勢の人がいる。彼だって、人通りの多い場所で襲ってくるはずがない!
あと二歩、一歩、ほら、そこに誰か人が――。
「――菟雨?」
「そ、ら」
その水色を捉えた瞬間、わたしの緊張は一気に崩壊する。まるで、水の溜まったダムが決壊するように溢れる涙に対し、素良は少し困惑したような顔をした。
きっと、「どうして泣いているの」なんて当たり前の事は聞かないんだろう。いつたってそう、わたしは酷く泣き虫で、一人が怖いのだから。
……だから、こんなに息を乱した理由だって、簡単にごまかせる。
勢いに任せて素良に身体を預ければ、肩を抱いて受け止めてくれる。素良は優しい人、だから、嘘なんて吐かない。素良はいつだって、わたしを守ってくれるヒーローだ。
「そら、怖かった…とっても、とってもこわかった……」
何がとは、言わない。
わたしの大粒の涙が、素良の黒いシャツをぐしゃぐしゃに濡らしてゆく。
「だから言ったでしょ、僕から離れちゃ駄目だって。菟雨は一人じゃ、なぁんにも出来ないんだから」
涙で出し切った空っぽのわたしに、素良の言葉がゆっくりと染みてゆく。そうだ、わたしは素良がいなくちゃ何も出来ない。だからずっと、素良と一緒。
「素良、ごめんね…置いてかないで……おねがい…」
「うんうん、いい子いい子。大丈夫だよ、僕たちずうっと一緒なんだから」
「そら、そら…」
「……菟雨には、僕が居なくちゃ駄目なんだ」
ゆっくりと告げられた、その言葉。何か特別な意味を孕むのかと顔をあげれば、普段と変わらない顔をする素良が視界に収まる。
素良はとっても優しい。いつだって、わたしを助けてくれる。わたしを安心させてくれる。泣いているわたしの腕を、引いてくれる。
抱き締められた肩から感じる素良の体温に眠気を誘われれば、身体の力はゆっくりと抜けて行く。
あれ、おかしいな、わたし、そんなに疲れちゃったのかな。
「そら、わたし」
とっても、ねむいの。
そう言い切る前に、わたしの意識は途切れてしまう。完全に途切れる寸前、素良が何か言葉を発したけれど、わたしはそれを聞き取ることができずに、眠りについてしまった。
「――失敗した」
僕は一言、苦い顔で言葉を発する。菟雨は完全に眠っちゃったみたいだから、声は聞こえていないだろう。
ああ、今日菟雨を突き放したのは完全に失敗だった。一体何と出会ったの、何と話したの、何に影響されたの?菟雨は、僕だけの菟雨なのに。
あの様子じゃあ、とても一人で彷徨ったからという理由は当て嵌まらないだろう。菟雨は自覚がないんだろうけど、僕にはわかる。あの"怖かった"の意味は、間違いなく人間の影響によるものだ。
僕がここまで作り上げた菟雨を、名も知らない他人が奪って良いはずがない。
菟雨は僕の為に存在して、僕だけを見つめて、僕だけを愛する……そうだなあ。例えるなら、機械みたいなものなんだよ。
菟雨を時々突き放して、僕無しじゃ生きられないと分からせてから回収する。昔からそう、僕はそうやって、菟雨の隣を維持し続けた。
菟雨はとっても頭が良い。けど、"疑う"という事を少しも知らない。だって、僕が教えてこなかったんだもの。だから僕は言うんだ。菟雨は愚かだねえ、菟雨はお馬鹿さんだねえって。
与えられた物しか学べない、そう、まるで生まれたばかりの小さな小鳥。ただ一つ小鳥と違うのは、人工的に育てられて、今迄もこれからもずっと、僕と言う名の親鳥から逃げ出せないということ。
僕無しじゃ菟雨は生きられない。ずっと、そう教えてきた。だから菟雨は僕無しでは生きられない。そもそも、一人で生きたいとも思わない。
そうやって作った、僕の菟雨。
――どうせ、人間扱いしろとか言うんでしょ。けどね、菟雨は所詮僕にとって物なんだよ。僕が幸せになるための物。長い時間をかけて作り上げた、僕のお人形。
僕の手を離れることは許されない。
僕に逆らう事だって、許されない。
「安心してね。また、教えてあげるから」
菟雨が僕無しじゃ生きられないってこと。
だから教えてね。
菟雨をこんな風にした、奴の名前。
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