||| 闇アイチくんと一般人
雨が降るのは神様が泣いているからだと、幼い頃聞かされたことがある。私は今でもそれを信じていた。
バケツをひっくり返したような雨の日、傘も差さずに道を歩く。雨の日はいつもそうだ、神様と同じ痛みを共有したいからと傘は一度もさしたことがない。それで風邪を引くのは何時ものことだけれど。
びちゃびちゃと濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。けれど、胸に溜まった恐怖と不安感程のものではない。
数日前、アイチと共に訪れたカードショップ『PSY』。彼処で、アイチは得体の新たな力を手に入れそしてーーとても強くなった。
けれど、強くなったと同時に、私は何故かとても弱くなったように感じてしまったのだ。
得体の知れない恐怖を、底知れぬ闇を、そして脆い剣を垣間見た。それが私の中に入り込んだイメージなのか現実なのかは分からない。けれど、その『なにか』は私を飲み込もうとして…やめたのだ。
黒いその靄に触れた途端、一瞬にして靄は消え去って行く。一瞬だけ見えた、赤毛の彼、雀ヶ森さんの表情は驚愕に満ち溢れた顔だったのを鮮明に覚えている。
思えば、前から兆候はあったのだ。
ファイトの後、頭が痛くなるとよく彼は呟いていた。カードの声が聞こえるだなんて、あの時はただ単純に素敵だなと思った。けれど、今考えればそれは正しくない答えだったのだとよく分かる。
その力は溺れれば大変危険で、本来楽しむはずのヴァンガードを楽しくなくしてしまう悲しい力。
地区大会で一瞬だけ見えた、櫂くんの悲しそうな顔。彼のあんな顔を見るのは初めてで、今でも忘れることが出来ずにいる。
あれは本当のアイチじゃない。そう思いたくても、そう言い切れない自分がいるのが悔しくて仕方が無い。随分と長い間付き添って来た筈なのに、アイチのことを何も知らないんだなって思った。
それでも、彼に捨てられるその時までは側に居たい。そう思うのはいけないことなのだろうか。
風の強くなる雨の中、私はアイチの家へと走る。神様の涙は、まるで自分の涙のように重く冷たかった。
神様はまだ泣き止まない。
雨にびしょ濡れた私を、アイチのお母さんは優しく出迎えてくれた。いつもの事ながら、申し訳なさで一杯になる。それでも傘を差す気にはなれないけれど。
タオルで丁寧に拭かれた後、アイチの部屋へと案内される。つい先日までよく来ていた筈の部屋の扉はやけに重く大きく感じて、ドアノブに触れるのすらやっとの思いだ。
意を決してドアノブを捻り、扉を開く。ベッドと机だけの、相変わらずシンプルな部屋だ。
そんなシンプルな部屋の、数少ない家具の上でアイチは眠りについている。あどけない寝顔のまますやすやと小さな寝息を立てながら。昔の変わらない、幼い寝顔で。
白く柔らかい指先に、私の指を絡める。懐かしいなあ、昔もよくこんな風に手を繋いだのに。アイチが転ばないように、いっぱい手を繋いで。
「こうしてぎゅってすれば、ナマエは何処にもいかないよねって」
そう言ったのはアイチなのに。
一滴だけ垂れたそれは、アイチの頬を滑ってベッドへと落ちる。それが神様の涙なのか自分の涙なのかは、分からない。
それが切っ掛けになり、私は声を押し殺して涙を流す。神様が泣く日は人間も涙を流してしまうのだろうか。アイチの馬鹿、馬鹿。そう小さく呟いて、涙を流し続けていた。
ーー力を込めて握ったその手を、握り返される迄は。
「酷いなあ、弱くて馬鹿なのはナマエの方でしょう?こんな狸寝入りにも気付かないなんて」
「アイ、チ」
「ナマエは直ぐに騙されちゃうんだ、昔からそうだったよね?でも平気だよ、ぼくがずっと守ってあげるから」
「アイチ?」
「そうだよ、ナマエはそうやって僕の名前だけ呼んでいればいい」
握っていた筈の互いの手はいつの間にか離れ、アイチの白い手は私の手首を掴んでいる。手のひらに感じる喪失感に焦りを感じれば、「何を不安になる必要があるの?」と昔とは違う可愛らしい笑顔で問いかけてくる。そこにあるのは、単調な焦りと恐怖。
「なんでもないよ」とだけ呟けば、残念そうに小さく返事を返す。
上にいた筈の私は気付けば天井を見上げ、アイチが覆い被さる体制へと変えられる。手首は掴まれたまま、ドクドクと動く心臓が辛い。今のアイチにこんなことされたって嬉しくないのに。そう思い唇を噛めば伝わったのか、上を見上げれば辛そうに歪められたアイチの顔がいっぱいに広がった。
「駄目だよ、ナマエは何もわかってない。僕が何の為に強くなったと思ってるの?全部ナマエの為なのに!
僕はナマエを守る王子様になるんだよ、それなのにどうして分かってくれないの!?
お姫様は鳥籠で待っていればいいの。何処にも行かないで!誰とも話さないでただ待っていてよ!」
焦ったアイチの声が耳に残る。こんなの、王子様じゃない。何がアイチをそこまで動かしているのか。そんなのどう見たって全て私のせいだ。
けれど私は彼のことを甘やかす事は出来ない。このまま甘やかしたら、きっと彼はヴァンガードに対する大切な気持ちを失ってしまう気がしたから。
きゅ、と掴まれた手首を振り払いアイチを抱き締める。体を支えていた腕を両方離され、バランスを崩した為か簡単に抱き締めることが出来た。
彼の背中に手を回しながら、頭を撫でながらただ一言、「大丈夫」と囁いた。
何処にも行かないとは断言出来ない。誰と話さないということも、約束出来ない。アイチが私の王子様になったところで、本当に幸せにはなれないのだろう。それを知っているからこそ、私はただ「大丈夫」という一言だけを囁き続ける。
「置いてかないで、ナマエ」
「大丈夫だよ」
「櫂くんの所に行かないで。レンさんの所にも、ミサキさんやカムイくんの所にも」
「大丈夫」
「ナマエ、僕ナマエの為に強くなったんだ。櫂くんから貰ったブラスター・ブレードに頼らないで、新しい道を選んだんだよ」
「……うん」
「今の僕が、僕の本当の力なんだ。僕は白じゃなくて、何処までも暗い黒色」
「……」
「ナマエ、僕のこと褒めて。僕は、ずっと君の為に頑張ったんだ」
「……駄目だよ、私はアイチの事」
「駄目じゃないでしょ?」という、ぞくりとする程冷たい声で眠りかけていた意識が一気に覚醒した。
アイチの長い髪が私の額に触れて、なんとも言えない感覚が呼び覚まされる。妙な恐怖心と拒絶感が合間って、私は強く目を瞑った。
それが切っ掛けとなり、アイチの唇と私の唇の距離は0になる。やめて、と声を出そうと口を開けばぬるりとした『それ』が口内へと侵入し、どろりとした互いの舌を絡め合う。
不快感なんてものはない。これは紛れもなくアイチだ、その事実はどこまでま揺るがない。そう思えばこの行為だって怖くはなかった。いくら黒くても、普段と違っても、それがアイチの選んだ道だから。
アイチが私の口内を堪能した数分後、短い息を繰り返して呼吸を整える。口の端から垂れていた唾液は全てアイチが舐め拭ってしまった。
「あぁ、ナマエすっごく素敵な顔してる。僕、今のナマエの顔が一番好きかもしれない……」
恍惚とした表情でそう呟く。その言葉は、何故か私に捧げた言葉には聞こえなかった。
背中に回していた手を掴まれ、手首にそっとキスをされる。ぬるりとした感触が襲うに、そのまま舐められたのだろう。気持ち悪い、などと不快感を表そうと息を吸った瞬間思い切り噛み付かれた。
声にならない叫びが喉に留まる。犬歯で噛み付かれたのだろう、静脈を狙って噛み付いたのだと直ぐに理解できた。幸い、血は出ていないようだ。もしもアイチが飲み込んでしまったらと思うと、背中がゾッとする。
「僕ね、ナマエと一つになりたいんだ」
「どういうこと?」
「僕とナマエが一緒になるの。そうすればナマエが何処かに行っちゃうなんてことないんだもん。僕が寂しくなることだって、ナマエが泣いちゃうことだってない」
素敵でしょ?と続いた言葉に私は頷かなかった。
アイチは一体どこで道を間違えたのだろう。アイチを救ったのはヴァンガードだし、アイチを変えたのもヴァンガード。けれど、アイチを悲しませたのもまたヴァンガードだ。
再び零れそうになる涙を堪えて目を瞑る。もう、アイチを救うのはこれしかないのかな。そう思いながら二度目のキスをそっと受け入れた。
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