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 ||| ロクショウと思い出


(漫画版ヒカル編基準)
(落ちない)


川の清流、透明な水。冷たい空気と、ほんの少しの花の色。記憶の中に残っているそれは幸福なものだった。その記憶の中に存在する誰かの顔を思い出すことが出来たのなら、完全な幸福をわたしは手にすることが出来たのだろう。
しかし思い出すそれは常に変わりない。
優しげな笑みは覚えている。柔らかな声も覚えている。彼女の指先から機械の身体へと伝わる暖かさも色濃く記録されている。
しかし、しかしだ。わたしは彼女の顔を思い出すことが出来ない。彼女の名前も覚えてはいない。もし彼女に出会うことが出来たとしても、きみは誰だ、などという残酷な言葉を吐きだしかねないだろう。
何故思い出せないのか。何故覚えていないのか。大切なはずなのに、何故その記憶を失っているのか。
何一つ思い出せない日々を過ごして何年が経過したか。
午前六時、毎日決まった起床時刻に身体を動かす。
また今日も一日が始まるのだ。記憶の欠落した一日が。


「――で、夢遊病みたいに歩き回って迷子か」
「メタビーどの、何故此処に」
「ヒカルの奴が風邪引いたからわざわざついてきてやったんだよ」

無意識のうちにおみくじ町唯一の病院へ足を運んでいたわたしへと、目立つ黄色が特徴的な彼は端的にそう告げた。
KBT型メタルビートル、通称メタビー。アガタヒカルを主人に持つ彼との親交はそれなりに深い。人間は多く我々の関係を親友、ライバルと呼称するだろう。敵として戦い、共闘し、時には互いを守る。多くの修羅場を潜り抜けた者同士、その呼称は間違いではない。
思えば、最期に己の武器を振るったのはいつだったか。記憶のある限りでは、まだ夏の色が残る九月が最期の大きな戦いだった。
あの時以来、わたしが世話になっているメダロット博士はわたしに特別な事柄を頼んだ記憶はない。強いて挙げるとすればお茶くみや耐久度の実験だろうか。そう、両腕に備わった武器を使用することはただの一度も望まれなかった。無論それに関して不満はない、博士がそれで良いと言うなら良いのだろう。
どこかぬるい昼の空気。ふとすぐ傍に建てられた大きな時計の時間をみれば、短針は十の数字を指し示していた。

「……十時?」
「そうだよ。なんだ、気付かなかったのか?」
「覚えている限りでは、わたしはいつも通り六時に起床した筈だが……」
「ああ、成る程な」

一人納得する彼へと、首を傾げながらわたしは問う。それに対する答えは、あまりに単純だった。

「お前、起きてすぐ研究所からいなくなったんだよ。博士大騒ぎしてたぜ、『ロクショウが居なくなった〜!』ってな」
「そう、だったのか」
「去年の冬にもそんな事あったよな。あの時は確か、おみくじ町飛び出してオレたちの旅行先まで来てたか。冬になにか因縁でもあんのか?」

冬、という言葉に俯いて物を考える。特別因縁めいた事柄に心当たりはない。しかし、何故だろうか。頭の片隅で、何か違和感を感じる。オイルが冷え流れが滞るような、そんな違和感を。
「……冬」
言葉という形にして違和感を吐き出すが、納得のいく答えは出ない。それどころか深まる謎に、痛みを感じない筈のメダルが軋む感覚がした。
「今日のお前、なんか変だぞ」
彼の呆れた声色に自嘲以外の選択肢はなかった。その通りだ、今日のわたしはどこかおかしい。しかしその原因に一切の心当たりが存在しない。何故、そんな疑問ばかりが浮かんでは消えてゆく。答えは、何処にあるのだろう。
時計の足元に彩られた花壇を見つめながら、わたしはただぼうっと時間を無為に貪っている。此処にいる理由はない、ここに居てはいけない。頭の中で、警告が溢れては消えてゆく。理由は分からないが、わたしは此処にいない方が良いのだろう。

「なんだ、またどっか行くのか?博士の胃に穴が開く前に研究所帰れよ」
「ああ」

返答もそこそこに、わたしの足は再び動き出す。行き先はわからない。頭の中にあるのはただ動くという意志だけだから。
病院という人通りの多い場所から、川へ、山へ、森へ。人気が減るにつれ冷たくなっていく冬の空気に、背中に収められたメダルの違和感は増してゆく。冷たい、だが歩みを進める足が止まる気配はない。もはや足自体が別の生き物へと変わってしまったような、そんな錯覚まで感じるほどに。
「……さむ、い」
漏れる言葉は、誰にも聞かれることなく白い雪の中へと消える。

降り積もったそれに、遠くまで来た自覚を持つのが先か。それとも、辿り着いた場所に懐かしさを覚えるのが先か。
昆虫博士、節原源五郎。先代の主人である彼の眠る墓を見て、わたしはただ言葉を失った。
悲しいのではない、寂しいのでもない。理由もわからないまま、わたしは静かに彼の墓標へつもった雪を払う。
カブトムシの彫刻が施された、彼の物だと一目でわかるもの。
――ああ、わたしは博士に会いに来たのか。頭の中でそんな結論が芽を出す。しかし、残った違和感が消えることはない。それどころか、より一層強くなりわたしに頭痛を訴える。
過去、わたしに博士の存在を思い出させてくれたバートンは居ない。恐らく彼は、メダロット研究所でわたしの帰りを待っているのだろう。
思えば、彼はわたしの過去全てを知り記憶している筈なのだ。それなのに、彼と再会したこの一年。博士の存在を思い出させてくれたあの日以降、ただの一度も彼は過去の話をしようとはしなかった。わたしが聞いても、答えはいつもはぐらかされて。隠されている?しかし、何のために。

節原博士の墓から、研究所へと足を運ぶ。この辺境の地へは、もう誰も足を運ばないのだろう。白い雪に、わたしの足跡だけが色濃く残っていた。
もはや、それすらも違和感を感じる始末だ。その理由さえ分かれば、この酷い頭痛も収まるはずなのに。




未だ正常に作動しているセキュリティシステムを抜け、わたしは研究所内へと足を運ぶ。電気も通っているし、生き物の気配を感じ取って作動する暖房はすっかり冷えたわたしの機体を早々に温めてくれた。しかし、研究所の主人である節原博士亡き今いったい誰がこの施設を管理しているのだろう。
疑問を頭の片隅に残したまま、わたしはただ廊下を歩く。その昔は、二つ分の足音を響かせて毎日歩いた廊下を。
……しかし、誰と歩いたのだったか。
嫌に響く頭痛を無視し、一つ分の足音を鳴らしてわたしは進む。ぱたぱたというスリッパの音、人の笑い声、バートンの羽音、わたしの――。

「――わたしは、何を忘れている?」

サナギに閉じ込め、忘れていた記憶は取り戻した筈だ。節原博士の事、金色のカブトムシの事、バートンの事も過去の事も全てわたしは覚えている。思い出した。それでもただ一つだけ、思い出せない物がある。
「きみは、だれなんだ」
わたしの頭の中で笑うきみが、嬉しそうにわたしの名を呼ぶきみが。
ああ、どうしてもきみの名前が思い出せない。


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