(
殺人現場13号室様提出)
「サーヴァント、セイバー。名を――」
「ナマエ!」
驚きに満ちた表情、どこか喜びの入り混じる声色。沢山の光を含んだ海の青色はじっと私を見つめ、その瞳の中に閉じ込めようとする。
私の名を呼ぶ彼を、知らないと言えばそれは嘘。ですが、知っていると言うのもまた嘘でした。
だから、名前を呼ぶ彼に私はこう返すのです。
「貴方が、私のマスターですか?」
その瞬間、瞳に混ざったのは悲痛な色。それを見るのは、どうも心が痛む。
――擬似サーヴァント。
それは人間の身体を依り代にし、英霊をその身に降ろした者の呼称。サーヴァントとして規格外の者、サーヴァントとなる事を拒絶する者、本来はサーヴァントになる事のできない神霊などを他者の器に入れる事により無理やり召喚する、といった多少強引な物です。
人間の肉体に英霊の中身をそのまま注ぎ込む、と表現するのが一番近いのでしょうか。
兎も角この身体は、擬似サーヴァントとして召喚された故に元の人間――ナマエとしての人格を殆ど失っている。
目の前の彼が悲しそうな顔をしているのは、それが原因のようでした。
「ごめん、あまりに突然だったから。ええと……」
「ナマエで構いません、マスター。貴方はその方が呼びやすいでしょう」
「……そう、だね。じゃあそう呼ばせてもらうよ」
歯切れの悪い言葉と共に返された曖昧な笑み。私は何か間違ったことを言ったのでしょうか。ナマエという名前を呼んだ時、彼はあんなにも嬉しそうな表情を見せていたというのに。今は、こんなにも――どこか、寂しそうな顔をしている。
彼のその顔は、あまり好きにはなれません。
「改めてよろしく、ナマエ。俺はマスターの藤丸立香だ」
「こちらこそ、よろしくお願いします。リツカ」
互いに手を取り握手をすれば、リツカの表情は既に平時のものへと戻っていました。これがカルデアのマスターの表情、なのでしょうか。
どこか堅苦しさを感じるのは気の所為?しかし、そう言い切るには少し不自然な気がしなくもない。
リツカ。その三つの文字を口の中で数回繰り返せば、リツカは不思議そうな顔をして首を傾げました。謎の堅苦しさは、依然消える気配を見せません。
「リツカという名前は身体に馴染みます」
ただ静かに、水中に墨を落とすように呟いた言葉。それを、彼がどんな顔で聞いていたのか――私は、知りません。
顔を上げず、望む通りに口元を緩め、内側から膨れ上がった感情を口にしただけなのですから。
「リツカ」
心がぽかぽかする。もっとその名を呼びたいと願ってしまう。
貴方の名前が好き、貴方の体温が好き。伸ばす手の、触れる指先の、真っ白の手の甲の――。
「やめて、くれないか」
――赤い、令呪。
ふと息を止め顔を上げれば直ぐ視界に入る。胸元を押さえ表情を歪ませる、リツカの姿。ああ、その顔はとても良くない。
唇を噛み締め、私から目を逸らし、何かから逃げようとする姿。
痛い、胸が痛くて仕方がない。そんな顔をさせたかったわけではないのに。
「りつ、か」
「ご、ごめん!その……違うんだ、嫌というわけじゃ…」
「嫌という顔を、していました」
声が震え、幸福に満ちていた私の心が少しづつ冷たくなっていくのを感じます。こんな事を言いたいのではありません。リツカを追い詰めたいのでもありません。それなのに、意味のない言葉は言葉は溢れるばかり。
何故嫌なのか。何故嘘をついたのか。何故そんな顔をするのか。
知ってもどうにもならないのに、どうしてこんな無意味な質問が口をついて出るのでしょう。
彼を知りたいから?いいえ、それは違う。知りたいなら他に方法などいくらでもあるはずなのに!
ああ、胸が痛い。息を吸うたびに刺さるような痛みが私を襲うのです。
矢継ぎ早に溢れる言葉を無理やり押しとどめ、唇を噛み俯けば重苦しい沈黙が私たちの間を埋め尽くします。
けれど、先にそれを壊したのはリツカでした。
「……ナマエ、は」
「はい」
「俺の幼馴染なんだ」
「……」
「だから……君に名前を呼ばれるのが、怖い」
「どうして?」
「君は――ナマエじゃないから」
ああ……こぼれた。
私の中で、何かがこぼれて、水浸しになった。そんな気がしてしまった。彼の一つの言葉が、必死で均衡を保っていた私の心を崩してしまった。
私はナマエじゃない。いいえ、この身体はナマエのものです。私は、ナマエという少女に降ろされた英霊なのですから。だから私はナマエで、リツカの言葉は間違っていて?ああ、もう、考えれば考えるほど分からなくなってしまう。
「君が擬似サーヴァントとして召喚されたのは分かってる。その身体がナマエなのも分かってる。でも、違う。君はナマエじゃない」
いいえ違う、私はナマエ。貴方の幼馴染で、貴方のことをよく知っている人。だって、そうでしょう。この身体はそうだとずっと訴えているのですから!
この身が望んでいる、だから私もそれに応える。だって、そうすれば貴方が笑ってくれると思ったのに。記憶に焼きついた遠い昔の、暖かい貴方の笑みが見たくて仕方がないのに。
「そんなこと、いわないでください」
「言うよ」
「いや……嫌だ…」
「セイバー…」
「どうしてナマエと呼んでくれないのですか。どうして――ああ、どうして私を好いてくれないの、笑ってくれないの」
「私は貴方が好きなの!リツカが好き、あの一瞬見た貴方の顔がもう一度見たい!頭の中に残っている、遠い昔の貴方の笑みが見たい!ずるいわ、ナマエはずるい!私だってナマエになりたかった、貴方の笑顔がただ見たかった!心を奪われたのは"私"なのに、貴方の中には"ナマエ"しか居ない!」
同じ肉の殻。同じ人格が在ったもの。それなのに、何故"私"でないのか。私にはどうしても分かりません。
私は恋を知りました。カルデアに召喚された、ほんの一瞬。藤丸立香という人の、凪いだ海のような色とは裏腹の輝いた瞳に吸い込まれ、囚われ、彼のものでありたいと願ってしまいました。
貴方がナマエの事を考えるたびに、酷く胸が痛む。けれど、その痛みと同時に私は気付いてしまったのです。彼の望む"ナマエ"という存在であれば、彼の心の内側に入り込む事が出来るのではないかと。
なのに。
「……君とナマエは別の人間だ。だから俺は、ナマエという名前の君を好きになることはできない」
あまりに優しい、残酷な言葉。これが、藤丸立香という人間の言葉なのでしょうか。いいえ、きっと違う。
そう結論づけて彼を見つめれば、また、そうやって彼は私に笑いかける。
――"カルデアのマスター"として。
「真名を、教えてほしい。俺は、本当の名前で貴方を呼びたい」
告げてしまえば全て終わる。私の恋も、この身体に残るナマエという少女の存在も。
けれど、私にその言葉を否定する権利はありません。分かっているのです、どれほど渇望しようと所詮私は英霊、喚ばれた者。
彼が否定すれば、私の存在は許されない。
だから私は、震える声で告げるのです。
腕を伸ばし、指先を動かして、白い手の甲に描かれた赤色をそっと撫でながら。
「サーヴァント、セイバー。真名を――」