(
これと同じ子)
ナマエはよく知っています。ユーリは自身を知られる事を恐れているのだと。でもナマエは何も言いません。それがユーリの幸せだからです。
ナマエはユーリの幸せを願います。でもユーリはナマエの幸せを願いません。それで構わないのです。ナマエの幸せを願ってくれるのは、夢の世界の悪魔だけで十分だから。
ユーリは自身の幸せだけを考えればいい。それが神様として、他者から崇拝される人間として当然の事なのです。
ユーリはナマエの神様。ナマエだけの、神様。ユーリを崇拝するのはナマエだけで構わない。だってそれが、ナマエの幸福だから。ユーリを信者というちっぽけな立場で見上げるのはナマエだけで構わない。だってここは、誰よりもユーリが輝いて見える場所だから。
「だからキミはユーリの事を好きじゃないって?」
「すきです。ユーリのことは大好きです」
「ンー、君の話は難しいなあ…」
「わからなくてかまいません。ユーリが分かってくれればそれで良いです」
「好きと崇拝って、どう違うの?」
「違いなんてありません。ナマエはユーリが好きです。ユーリが好きだからこそ呪われる事を恐れ、傷付けられる事を恐れ、崇め奉るんです。手を合わせて救いを乞えばユーリは必ずナマエを助けてくれる。ユーリは神様です。神様は人の願いに応えるもの。でも時々生き物に失望する」
「……えっと、つまり?」
「でにすは頭が悪い。もう会話したくないです」
「そんなあ!もう少し分かりやすく説明してほしいんだけど」
そう言って目の前の人は机に倒れこんでしまいました。紅茶の入ったティーカップが横を向く寸前です、やめてほしいです。そうは思っても口には出しません。
この人の持ってきたクッキーを一口齧れば、バニラの豊かな風味と甘みが口の中に広がり、少しだけ幸せな気分になりました。甘いものは良いものです、気分がとっても落ち着きます。口いっぱいに頬張るとユーリに怒られてしまうから、一口一口丁寧に食べてゆきます。今この場にユーリはいないけど、いつ見られるか分からないからナマエはいつもユーリの言いつけを守っています。
「そういうところ見ると、やっぱりキミも子供なんだって安心するよ」
いつのまにか顔を上げていたあの人は、ナマエを見て笑いながら言いました。少しだけ失礼な事を言われた気がしますが、ナマエは優しいから何も言いません。
お砂糖の入っていない紅茶を一口飲めば、身体全体に紅茶のほんのりとした温もりが広がり幸せな気分になりました。不思議です。紅茶はとてもよいものです。
「気に入ったかい?」
「はい、とても」
「それは良かった!じゃあさっきの話を是非とも分かりやすく」
「それはいやです」
「返事が早いなあ」
反省の色もなしに苦笑いするこの人に、ナマエは少しだけむっとした表情を浮かべました。頬が膨らんでいるのはきっと気のせいです。ナマエはそんな、子供のような真似はしません。
「じゃあ考える努力はするから、質問してもいい?」
「かまいません」
考える努力はしても理解はしないのでしょう、と現実を突きつけなかったのはナマエの良心でしょうか。こんなナマエにも、良心が残っていたのは驚きです。ユーリがいないから、余分な事を考えてしまっているのでしょうか。だとしたら少しこまります。
「キミはユーリが好き?嫌い?」
「すきです」
「キミにはユーリが、どんな人に見える?」
「ユーリはそにあの神様です」
「ユーリは怖い?」
「怖いです」
「それはどうして」
「……」
――息を、飲み込む。
「言えない?」
「……ユーリは、かみさまだからです」
「本当に?キミは本当にそう思っているの?思い込みじゃなくて?」
嫌な笑顔を浮かべてあの人は言います。言葉を吐き出すのをやめません。「縋る先がユーリしかないから、そう思っているだけじゃないのかい?」やめろ、やめろやめろ。やめてください。何故か気分が悪くて、吐きそうで、仕方がないんです。
あんなに幸せに感じた甘いクッキーが今はこれ程までにいやな、気持ち悪い、憎悪の対象になってしまうのです。ぐるぐると回る不快な香り、鼻の奥を擽るのは心地よい甘さなんかじゃありません。不安に、不快になるほどの甘さがナマエを襲って、苦しめるのです。足から、手から、脳から、全てを侵食するように香る甘さがゆっくりと、まるで植物の成長のように脳を締め付けて身動きを取れなくして。
甘みの残る舌が全身を嬲るように上顎をゆっくりと撫でるのです。自分の身体のはずなのに、うまく動かせません。ぱたぱたと溢れるのは唾液ですか、それとも涙ですか。最早わからないなほどに何もかもがかき混ぜられた脳で、これ以上どんな答えを出せというのですか。
ああ、息ができなくて、酸素が足りなくて、頭がぼんやりして、苦しくて苦しくて苦しくて、それで、あと……なんでしたっけ。
「ナマエ」
「………ユーリは、神様。ナマエにとっての神様です。だからユーリを崇拝する、信仰する信者はナマエだけでいいんです。その他大勢は、必要ないんです」
「どうして彼を神として崇めるんだい?」
「ユーリはナマエを救ってくれたから」
「何処から救ってくれたの?」
「――天国、から」
だからユーリは、ナマエの神様。
……そんな、戯言にも似た言葉を最後まで吐き出すことは叶わず、ナマエは、床に倒れこんでしまったのだと後日人伝にききました。