||| サイレントルームに会いに行く
「また、今日がやってきたね」
何もない、真っ黒の部屋でわたしはそっと微笑む。返ってくる言葉はない、音だって何もない。
鍵盤は外れ、弦は切れ、美しい黒一色で塗られた筈のその体は、多量の傷がつき、見るに耐えない程見窄らしい。
――けれど、わたしは、それでも貴方を手放すことが出来ないから。
傷だらけの身体を撫でれば、貴方は幸せそうに軋む音を奏でてくれる。カチコチと聞こえる時計の音は、まるで貴方の心音を伝えるよう。
白と黒で統一されたこの空間は、酷く繊細で美しく、何よりも悲しい物。わたしの愛を吐き出しても、その愛は一瞬で色を失い、何もかもが消えてしまう。
分かってるの。貴方に、わたしの気持ちが伝わらないってことは。だってもう、ずっと、同じ事を繰り返しているんだもの。
悲しいなんて感情は、とうの昔に色を失ってしまった。
「愛してる、世界で何よりも、誰よりも」
そんな事を言っても変わらない、何もかもが色を失って、ただ虚しい気持ちが重なるだけ。
どんな感情を抱いても、貴方に言葉を投げ掛けても、それは全て色褪せるの。
貴方と同じ白と黒に溶けたそれは、貴方に届かず、この部屋で離散する。
かち、こち、と一定の間隔で時計の針が音を鳴らす。まるで貴方の心臓のようね、とっても綺麗。
色の無いわたしが、色の無い貴方に色のある愛を吐き出す。滑稽ね、おかしいわね。笑ってくれたら、わたしだって笑えるのに。
貴方はいつだってそう、ずっとずっと、わたしを見て、ずっとずっと、悲しい音を奏で続ける。
色の無い貴方が、色の無いわたしに色のある悲しみを吐き出す。どうしてかしら、そんな単純な事が、こんなに悲しいなんて。
――貴方の奏でる音が聞きたいな。わたし、ピアノ、上手じゃないの。
そんな簡単な言葉さえ、わたしは満足に吐き出すことが出来ない。好きよ、大好きよ、だからお願い。わたしに貴方の音を聞かせて。
一年に一度の今日という日が、わたしは何よりも愛おしくて、痛くて、悲しくて大切なの。
ねえ、貴方が初めてわたしに音を聞かせてくれた日、覚えているかしら。
あれから何年が経過した?窓から見える小さな丘の、遠くの空のマジックアワー。青色の空に通り過ぎた、小さな小鳥。お友達と奏でたコンチェルト。
昔の記憶なんて、辿れば幾らだって溢れてる。その一つ一つに色を吹き込んだら、貴方はまた音を奏でてくれるのかしら?
荒廃しきったこの空間。一年に一度、わたしは貴方に会いに行く。
もう誰もいない屋敷で、一人で佇む貴方に会いに。
「おやすみなさい、サイレントルーム」
今度は、今度こそは、貴方を幸福にする方法を、見つけて帰るから。
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