||| シングセイバー様と深淵
(奈落落ち寸前)
嗚呼美しき我が子、我だけの愛娘。何故お前はこんな穢れた世界を見続ける?
その空白の眼孔に我が眼を与え、お前は我と世界を見続けた。我と共に生き、生物の穢れと悪意を見続けた。
人間は悪意しか持たぬ。そして裏切り、妬み、悲しみを持つ哀れな存在。我々が守るに相応しいと、感じられぬ程悲惨な生物だ。
それなのに何故、お前は人間に微笑みかける?何故そうして呼吸ができる?
苦しくはないのか。人間に裏切られ我と肉体を同化したお前は、人間を恨む権利を持っている。否、本来恨まなければならない筈。
なのに何故、お前はそうして人間へ救いの手を差し伸べることが出来るのだろう。
その眼に映るのは、我には眩しすぎる光の色。
ああ何故だ、お前は我の一部ではないのか。お前は我であり、我の眼はお前のもの。
我の世界はお前の世界と同一であり、我の見る世界をお前は十分理解している筈。
人間に触れるな、お前は幸せになどなれるはずがない。我以外の手を取るな、我だけを見続けろ、お前の世界に我以外必要ないのだ。
――お前のその青色、再び奪えばお前は我の元へ帰ってくるか?
「シングセイバー様、どうかされたのですか?」
薄く開かれたその唇、日の光を浴びても尚白い肌、さらりと零れる長髪、そして何より、我と同じ青い瞳。
同一の存在、我の所有物、我が愛しの愛娘。
視界に収める度酷く安心してしまうのは何故だろうか。そこに居るのは当然、心配する必要などないというのに。
「何でもない、ただ遠くを眺めていただけだ」と虚偽を言葉にすれば「世界は美しいですからね」と純粋な言葉を返される。
お前はこの世界を美しいと感じるのか。そう思えば、心に何か重たいものが刺さった。
何故世界は美しくなくなったのだろう、いつから我の視界は曇ってしまったのだろう。
守護龍とは民を守る者であり、この世界を見続ける役目を持った大いなる存在。世界を見守らなければならないというのに我は何故、この世界を見限ろうとしているのだろうか。
吐きそうになった溜息を無理やり抑え、我が娘と同じ世界をゆっくりと眺める。ああ、人々の欲に塗れた世界が美しいとは嘆かわしい。お前は何を見て、この世界を美しいと感じたのだろう。
言葉にしても恐らく、我が理解出来るとは思わないが。
「世界は素敵ですね。私が知らないものが、山のように存在するんです」
「知らないもの全てが美しいと申すか」
「はい!だって――――あれ、シングセイバー様…」
どうか、されたのですか。
恐怖を孕んだ疑問の声。我は普段と変わらない筈、我が子は何に怯えているのだろうか。
青の眼は不安に揺れ、心なしか眉は下がる。
愛しい子、どうか声に出してはくれないか。そうは思っても、その願いが伝わることは無い。
ああ、一体何が起きたというのか。我は何も変りないではないか、お前の青にも異常はない筈。
何に怯え、何を感じる?普段と変わらない声で問い掛けても、返答は何もない。
何故、何故?お前は一体何を見た?我の見えない我自身を、お前はその眼にどう写した?
「ナマエ」小さく名前を呼び、手を伸ばしても、その手を取ることはない。
先程まで見せていた、あの美しい微笑みは一体何処へ?お前は何故笑わない。
我の伸ばした手は頬に触れ、部位からは小さく火花が飛び散る。
――これは一体?
「ナマエ、どうしたのだナマエ」
「いや、ごめんなさい、ごめんなさい……何故か分からないんです、わたし、突然こんな……」
「落ち着きなさい、ナマエ」
「いや、いや、助けてくださ」
「お前は何に触れた」
「私、人に……」
……人間に関わるなと、あれ程言ったのに。
「いつ触れた」
心なしか冷たくなる声を自覚する。お前を責めているつもりはない、そう補足すれば肩の力は少しだけ抜けたようだ。
細い呼吸を繰り返しながらも、返答をしようと必死になる姿はとても可愛らしい。ああ、今この場で考えるには少し相応しくないだろうか。
「シングセイバー様が、眠られているとき」
「何をした?」
「私、人を助けようとして、それで」
「ああ」
「……この目を、寄越せって」
嗚呼、人間とは、何故これほど救いようのない生き物なのだろうか。
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