||| ソフィアちゃんとビー玉
ころりと滑り落ちたビー玉はそのまま地を転がり、罅の入ったそれはいとも簡単に砕けてしまった。
ゆっくりと瞬きをすれば苦い顔をした姉の姿。その視線は割れたビー玉へと一身に注がれており、何故か私が憎まれているような錯覚すら覚える。
どうかしたの、だなんて場違いな言葉をかけることはできない。
「ビー玉、割れちゃったね」
その無難な言葉すら棘へと変わりかねないこの状況に、私はただ胸が痛かった。
冷たい視線をビー玉に投げたまま薄い反応を返す姉は、例えるならば水色のビー玉。 光に空かせば綺麗な映像が映り込む、私の大好きな不思議な存在。
割れてしまった白の徘徊するビー玉は、周囲に破片が散らばり、それはもう無残な物。
白いシーツの敷かれたベッドに転がるビー玉は残り8個、カラフルな色が内臓されたビー玉達はどうなるのか、なんてそんな事。
「お姉ちゃんは、ビー玉嫌いなの?」
俯き気味にそう呟く。
「そうね、嫌いよ」
割れたビー玉を見つめたまま返ってきた短い返事は、私の胸に深く刺さった。
シーツの上を転がるビー玉が映し出した私の顔に、何故か気分が悪くなる。
私は好きだよ、そんな声にもならない言葉を無理やり押し込んで曖昧に笑う。上手く笑えているかな、なんて思う事は烏滸がましいだろうか。
透き通った転がったままの8個のビー玉。何故か寂しくなってそっと手で救ってみれば、3個のビー玉はごろりと手から零れ落ちてしまう。
一つ瞬きをしてから手を伸ばしてももう遅い。何処か遠くへ消えてしまった二つの硝子と、そのまま落ちて割れてしまった一つの硝子は声もあげられぬまま壊れてしまった。
残るビー玉は5個。かちりと音を立てて手の中で転がり続ける硝子玉達が、濁ったように見えるのは何故なのか。
「……壊れちゃった」
「硝子だもの、割れるのは当然のこと」
「割れたらもう戻らない?」
「当然よ、誰も元に戻せないもの」
「王様の馬でも家来でも戻せないの?」
「そうよ、壊れた物は戻らないもの。貴方の身体も、何もかも」
「……キョウヤ様は治るって、言ってくれたよ」
「ならそれは嘘になるわ。貴方の身体は治らないもの、もう貴方は歩けない」
そう言って、お姉ちゃんは唇を噛む。
どうして、そう言葉を投げかける前にお姉ちゃんは手を振り上げ、私の手に乗った二つのビー玉を床に投げた。
残るビー玉は3個だけ。
真っ白いシーツをぎゅっと握りしめて、お姉ちゃんは感情を露わにする。
珍しいね、お姉ちゃんがそんな風なの。そう思って少しだけ笑えば、寄せられた眉は元の形に戻りいつもの冷たい顔へと変わった。
「貴方はもう歩けない、歩かなくていいのよ」
そう言って再び椅子へ座るお姉ちゃんの様子は、いつもと何ら変わりない。
歩かなくていい、という言葉はどうも受け入れ難かった。
お姉ちゃんもしも歩けたら、お姉ちゃんと散歩に行けるんじゃないかっていう夢も、お姉ちゃんとキョウヤ様のパイプオルガンを聞けるんじゃないかっていう夢も全部現実になる。
私は夢見がちだ、その事実は随分と昔からお姉ちゃんに指摘されてきた。今でもそれが変わることはない。
夢を見たっていいじゃない、だって夢なんだもの。そう言葉にしたところでお姉ちゃんが受け入れてくれるわけないのは…知っているけれど。
手のひらに転がった三つのビー玉。濁ったように見えるのは錯覚か、それとも。
可哀想なビー玉達、転がって捨てられて、何処かへ消えて行ってしまう寂しい物。
私はビー玉が好き。可哀想だけど、綺麗でもあるから。この白い部屋の中で、カラフルなビー玉だけが私の心の拠り所だった。だから私はビー玉を見ると安心する。
まるで、誰かがその場にいるような錯覚を感じるから。
「お姉ちゃん、小さい袋あるかな」
「何に使うというの」
「ビー玉を入れるの。そうすればもう割れないから」
「――そうかしら」
息を吸い込んで、低い声で小さく呟かれる。
ビー玉を睨みつけたままのお姉ちゃんから感じる、怒気にも近い何か。
どうしてビー玉を嫌うの?残りの三つは、私の大好きな色だというのに。
ぎゅ、ビー玉を胸元で握り締めれば、酷い力で私の手は掴まれる。痛いだなんて言葉を吐く余裕は一切ない。
どうして、どうしてこんな事をするの。ただそれだけが募り、呼吸は乱れる一方。怖くて苦しくて涙が零れても、お姉ちゃんは止めてくれない。
ごめんなさい、その言葉を繰り返し口にする。それしか知らない、壊れたラジオのように。
お姉ちゃんはどうしてそんなにビー玉が嫌いなの?私悪いことをしたなら謝るから。
突っかかりながらも必死にそう訴えかける。
逃げるための足は、役割を果たせない。
「いや、いやだ……ごめんなさい、ごめんなさいお姉ちゃん」
「貴方は歩けない、貴方は何処にも逃げられない、貴方は私の手から離れられない」
「そうだよお姉ちゃん、私何処にもいかないよ、だからお願い」
「そうよ、だから貴方は他の人間に触れられてはいけないの。だからそんなビー玉なんて」
必要ないじゃない。
薄く微笑んで、私の手の中にあったビー玉を遠くへ投げつける。
残るビー玉は二つだけ、大好きな水色のビー玉と、透明でとっても小さなビー玉。
大好きな色の筈なのに、酷く濁った色をしている。こんな色どうして、お姉ちゃんの色なのにどうして?
泣きそうな顔でビー玉を見つめる私を、お姉ちゃんがそっと抱き締める。
白くて滑らかなお姉ちゃんの手は大好きだ、けれど今はどうしても好きになれない。私の頬をなぞるその手が何故か不快で不安で仕方がなかった。
「王様の馬でも家来でも戻せないもの、知ってるかしら」
「たまご、でしょ」
「違うわ、私たちの関係よ」
馬鹿ね、と呟かれた言葉は誰に向けたものなのだろうか。
手のひらの上に転がったままの二つのビー玉は、色が濁ってゆくばかり。
壊れた卵もビー玉も、私の足もお姉ちゃんも、全部全部元には戻らないのだろう。
寂しいなあと思っても、その言葉を受け入れてくれる人は何処にもいなかった。
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