||| Vくんは愛したい
僕の妹はよく泣く、そして苦しいと嘆いている。何故なのかはよく分からない、それを理解した所でどうにもならないと知っていたからだろうか。
生きるのが辛い、それなら死んでしまえば良いのではないか。そう思っても伝える気にはならなかった。何故なら、妹が死んで一番困るのは僕自身だからだ。
僕たちは依存している、それを自覚しているからこそ干渉ができない。彼女に近付きたくてもできないのは、恐らくその為なのだと思う。
苦しいと思ったことも寂しいと思ったこともない、そもそも彼女は僕のことを拒絶するから。僕が触れれば彼女は酷く辛そうに泣き叫ぶ。僕は彼女の嘆く姿が嫌で仕方がない。僕はこれ程彼女を愛しているというのに一体何故なのだろう、僕たちは歩み寄る事ができない。
彼女は他者との干渉を嫌う。彼女は他者に触れられる事が何よりも嫌いだ。
何故なのかと問うことも随分と前に止めた。繰り返すことに意味を見出せなくなったからだ。
僕の妹はよく泣く、本当によく泣く。
何故泣くのか、聞きたくないのに僕は聞いた。彼女は理由を話すことはない。僕の妹はいつも泣いている、苦しんでいる。その理由を理解することは出来ないだろう。
彼女が泣いている姿は見慣れてしまった。それなのに何故これ程胸が痛むのだろう。僕は彼女に同情しているのだろうか。
小さな声で彼女は呼ぶ。父様の名前、兄様の名前、僕の名前。それを聞く度僕は胸が苦しい。今はもうその名前ではないというのに。
寂しいという声が聞こえる度に僕はどうしようもない感情に押し潰される。そうだ、僕も同じように寂しくて仕方が無い。けれど彼女を抱きしめてあげられる程僕は強くない。
トロンに渡された一枚のカード、〈ナンバーズ〉。彼女はあのカードを酷く嫌っていた。どの数字を渡されたのか僕は知らない、彼女は一切教えてくれない。
彼女は優しい子だ、僕たち家族を何よりも大切に思っている。だから復讐という欲に支配されたトロンを何よりも恐れ、嫌っていた。
いつか彼女は一度だけ教えてくれたことがある。「人は人の為にしか生きられない」のだと。なら今の僕は誰の為に生きているのだろう。彼女の為か、トロンの為か。
自分の為に生きるという考えは、いつしか僕の中で恐怖へと変わっていた。それは彼女が何よりも嫌う一番の欲、自己愛。
彼女は誰の為に生きているのだろう、僕は何の為にトロンの復讐へと加担しているのだろう。
幼い頃分断された家族は何よりも大切で仕方がない、彼女も、兄様たちも、トロンも、全員が揃って僕たちは家族だ。僕は家族が一緒に居るならそれで良い。けれど彼女は違うのだろうか。僕にはそれがわからない。彼女が泣く理由が、どうしても分からない。
「どうだい?ナマエの好きなお菓子を揃えたんだ」
「……兄様、私はナマエではありません。Uとお呼びくだい」
「……僕にとってナマエはナマエだけだよ」
彼女の…ナマエの好きな甘いお菓子と温かい紅茶。花瓶に生けられた黄色い水仙の花は、花だけが落ちてしまっている。俯いたナマエに僕は何も言えなかった。
今この家には誰もいない。それはつまり、僕のことをミハエルと呼び、彼女のことをナマエと呼ぶのを咎める者が居ないということ。
僕たちは数字だ、トロンの復讐を果たす為に動く駒。僕たちはそれをよく理解している――つもりなのだけれど。
時折感じるこの気持ちは何なのだろう、悲しみにも苦しみにも似た妙な感覚。指先から痺れ、脳へと伝う冷たいもの。
ナマエはいつも、僕を通して何処か遠くをみている。それは兄様たちの時も同様、トロンだって例外ではない。僕たちはナマエのことが大切だ、たった一人の可愛い妹。それなのに彼女は、僕たちではなく他の誰かを見つめている。
そうだ、僕は嫉妬している。ナマエがいつも見ている〈それ〉に、彼女の見る未来に、彼女の見ているもの何もかもに。
彼女の見る世界を独占したい、そう思っても彼女に触れることは叶わない。何故ならナマエは触れられることを嫌うから。それなのにナマエはよく泣く。僕にはその理由がどうも理解出来なかった。
昔はあんなに笑顔だったのに、あんなに幸せそうだったのに。一緒に手を繋いで庭を歩いたことも、唇を重ね合わせたことも、全て無かったことにするかのように彼女は僕たちを拒絶した。
「兄様、私には――貴方とお話する意思などありません」
「けれど僕はナマエと話がしたくて」
「何もお話しすることなどありません、何も」
「ナマエ……」
数字を嫌う僕の妹、トロンが帰ってきた日から壊れてしまった僕の妹。
酷く悲しそうな顔をするのは一体如何してなのだろう。僕は一体如何したら、その顔に輝きを取り戻せるのだろう。
僕には、ナマエを愛する方法が分からない。唇を重ね合わせたところで何も変わらない、手を繋いで庭を歩いたところで何も変わらない。僕にはナマエを愛する方法が分からなかった。僕自身が愛される方法も、彼女が愛される方法も同様。僕は無知な子供でしかない。
眉を下げ、苦しそうに席を立つ彼女を引き止めることは出来なかった。
一体如何してそれ程までに悲しそうな顔をするのだろう、一体如何して苦しそうな声を出すのだろう。僕はナマエの腕を引く方法さえわからない。ナマエは一体何処に溺れているのだろう、何に怯え苦しんでいるのだろう。
ナマエの笑顔がもう一度見たい。共に手を繋いで歩きたい、唇を重ね合わせてキスがしたい。僕は他に愛する方法を知らないから。
席を立ち、部屋に戻るナマエを追いかける。ふらふらと覚束ない足取りで歩く彼女の隣に、僕は立ちたかった。けれど僕には、その資格がない。
酷く疲れたように歩く彼女が、まるで別人のようで怖かった。僕の妹は一体何を抱えているのだろう、それを理解したくても僕には出来ない。
白い扉の向こう側、吸い込まれるようにナマエは入ってゆく。彼女の自室、何にも染まらぬ白い部屋。
彼女の後を追うことが僕には出来なかった。僕は出来ないことだらけじゃないか、そんな事とうの昔に理解している筈なのに。
ただ呆然と彼女の部屋の前で立ち尽くす。中から泣き声が聞こえるのを、知らぬ顔して。
苦しむ声や泣き叫ぶ声、それは全て、僕を拒絶する声なのだろう。僕はそれを理解していながらも聞くのを止めなかった。
僕には愛し方も愛され方もわからない、けれどこれがナマエの愛の形なら僕は、僕は。
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