text | ナノ
 ||| 07


幼少期のあだ名は不思議くんだった。
小学三年生になったばかりの頃、クラス替えで始めて同じになったクラスメイトに付けられたあだ名。
本ばかり読んで、バディファイトして、ただ目的もなくのんびりとした日々を送っていた、何処にでも居る普通の少年。今思えば、もっと勉強しておけばよかったなあなんてちょっとだけ後悔。
ぽたりと雨の滴が垂れる。空は見事な灰色で、雲に覆われたまま。雨だ、傘を差さなければ濡れてしまう。
そう思いながらも僕はただ真っ直ぐ空を見上げていた。過去の君の隣で、ただぼんやりと。
雨水が火照った身体に心地よい。そういえば僕はさっきまで何をしていたんだろう、今ここで何をして居るんだろう。
物忘れが激しい、僕は何処にいて何をしていた?
ぱちり、と何処かで泡が弾ける音がする。視界が青に染められてゆく。待って、あと少しだけ…。
隣の君の口が動く。声のない、〈逃げて〉という短い言葉。
僕は何を忘れている?何を思い出せば良い?それは思い出してはいけないのだろうか。
泡が弾ける。蒼い視界が白に埋め尽くされてゆく。僕は何を思い出せずに居るのだろうか――。

白い視界が泡のように弾ける。この感覚は二度目だ、一体僕は何をして居るのだろう。
目の前には少し成長した君の姿が見える。学生服を着ている…中学生の頃の僕だろうか。
相も変わらず一人で本を読み続けたまま。一人で寂しくないのだろうかと思ったが過去の自分に対してその言葉はないだろう。正直、この頃の事はあまり覚えて居ないから。
――何故覚えて居ないのかは、思い出せない。何が理由なのか、何が原因なのか、記憶の一部が雑に抜けた状態で曖昧な記憶しか残っていない。
残ったパーツを繋ぎ合わせても一つの記憶には辿り着かなかった。何故、僕は何を無くしているのだろう。
ぐ、と下唇を噛み記憶を探る。普通に生まれて、普通に育てられて、普通に生活してきた筈なのに――一体どうして?
本から視線を上げた君が僕を見る。少し前と同じようにゆっくりと口が動いて、〈逃げて〉と短い警告を。
……何故警告と感じたのかは、分からない。これが本能という奴なのだろうか。
何から逃げれば良いのか、何を思い出そうとして居るのか僕には全くわからない。君たちは何を知っている?
視界に青が入り込む。ソーダ水のように白い泡が弾けて、少しづつ視界が白くなって、そして――。


白が爆ぜて、次に僕の視界を埋めたのは赤色だった。
炎の色や血の色がそこら中に飛び散って、一目見て事故だと分かる状態だ。此処は一体――?
僕の眼に赤色が映る。硝子のように反射して、きちんと視界に入ってきてくれない。おかしい、一体どうして?
彼らはこれを思い出すなと言ったのだろうか。それなら、僕は何故この事を忘れていた?
力の入らない足で、ゆっくりと一歩を踏み出す。割れた硝子が甲高い音を鳴らして気分が悪い。
肉の焼ける不快な臭い、助けてと叫ぶ人の声、うっすらと透けて見える、僕の手。
気持ちが悪くて怖くて、僕は只々必死で逃げる。息が苦しい、此処は何処?今僕が見ている光景は夢?無意識に呼吸を止めながらただ逃げる。
ただ純粋な恐怖しか感じることができない、何故?僕は何を……。

「父さん、母さん!返事して、お願いだから返事をして!」

――子供だ。
つい先程見た僕と姿はあまり変わっていない。じゃああれは僕自身?
そんな、まさか。そう思い半透明な自分の手を見つめる。
自分の手にあった小さな火傷。只の怪我だとハーティは言っていたが、この状況を見る限りとてもそうは思えない。
……じゃあ何故ハーティは嘘をついた?
ぱちりと泡が小さく弾ける。涙声で両親を呼ぶ過去の僕、赤く燃え続ける潰れた状態の車、赤の咲いた向こう側、力なく腕だけを出した………恐らく、僕の父さん。
身体が小さく震える、何故?僕は一体何に対して恐怖を感じているのだろう。

「――子供?」
「父さんと母さんが!おねがい、助けて!おねがい!!」

ぼろぼろと涙を零す君を僕はただ呆然と眺めている。こんな状態、冷静に見れば、もう両親の息がない事なんて一瞬で理解できるのに。
息を切らして両親を呼び続ける。真っ赤に染まった反対車線と、車の下に押し潰された父さん。
炎の余熱が残ったままの車はひどく熱くて、それでも車を動かそうとするのを辞めようとしない君を、青黒い手袋の彼女――ハーティが無理やり引き止める。
心臓が大きく跳ねる。何故彼女がそこに?僕は彼女と出会っていた?彼女は別のハーティ?
……けど、別人だったら火傷に理由がつかないじゃないか!
僕はただ立ち尽くす。真実を知るために歩くことも、そこから逃げることも出来ずに。

「貴方、やめなさい!そんな事したって助からない、もう貴方の両親は死んでいるのよ!?」
「死んでない!父さんと母さんは生きてる!」
「こんな状態で生きているわけないじゃない!!」
「生きてる!父さんと母さんが死ぬわけない、だって――」

「〈だって、三人で海を見に行くって約束したんだ〉」

そう言って全身の力を抜く。僕も、君も。
堪えていた声が少しづつ漏れ出す。ああ、あああ。叫ぶような泣き声に僕は何も出来ないまま、視界の水色を見つめ続ける。
赤に染まったままの視界にたった一つの水色。その場に似合わない筈なのに、その場に居なければならないような不思議な感覚。
父さん、母さん、どうして僕を置いていったの。
今までの日常を全て逆さまにしたような恐怖と重みに、君は耐えたのだろうか。今いる僕は、耐えた結果か、それとも逃げ出した結果なのか。
考えたくなくなって、僕は両手で顔を覆った。半透明な手で遮られる程この赤色は弱くない。
異常な程の恐怖を感じる。今いる僕が何者なのか分からなくなる。
過去の僕が言った〈逃げて〉の一言。警告の意味をやっと理解した。僕は思い出してはいけなかったんだ。この惨状を、赤色を、一番の恐怖を。
どうして思い出そうとしたのだろう。僕の頭には後悔しか残っていない。思い出さなければ、思い出さなければこんな恐怖を感じずに済んだのに。
――もう少しだけ、子供のままでいられたのに。

「おいクソ女、カードだけ奪ってさっさと…」
「勝手に何処かへ行きなさい」
「あァ!?何言ってんだテメェ!」
「バディは解消よ、お前みたいな愚図なんてこれ以上見てられない」

この場に似合わぬ凛とした声が響く。吃驚して顔をあげれば、自慢の杖を構えるハーティの姿と――あの時の男が対峙していた。
つい先程見た光景と同じ構図のまま、ただ違うのは背景と、服装と、ハーティが杖を構えて、そして何より…ハーティが少しの涙を流している所だけ。
怒りに震えるハーティの顔も、全く同じのままで。
大きく風が吹く。赤い炎とハーティの水色の髪を揺らして、僕の安心する水色で視界が一瞬塞がれる。
「ハーティ…」届かない声で小さく呟く。呼吸が止まってしまいそうな程の、驚愕と恐怖と、小さな疑問。
僕の中に存在しなかった記憶の中で何が起きたのかは理解した。じゃあ、この記憶は一体誰が何のために消した?僕が防衛本能故に?そんなのあり得ない。ならば一人しか居ないだろう。それを察して、ごくりと唾を飲み込む。

「クソ女テメェ!!」
「私の力を利用してこんな惨状を作り出して満足かしら?満足したなら早く去りなさい、この愚図」
「……おーおー、黙って聞いてやれば好き勝手言いやがって!ああそうかオレは愚図か、じゃあ愚図は愚図なりにやらせてもらうぜ!?」
「――貴方その子は!」

鈍い絶叫が響き渡った。力を抜いて座り込む僕の髪を掴み、無理やり引っ張って立たされる。血のついた赤い手によって、僕の濁った白髪は汚されてしまう。
限界まで無理やり引っ張られているせいか、髪が何本か抜けたのが遠くからでも理解できる。助け出したくても、半透明のこの身体じゃ僕はどうすることも出来ないまま。
どうする、どうする。必死に考えても何も浮かぶことがない、僕は無力なままじゃないか…!
ぽたりと涙がこぼれる。呼吸がしにくくてとても苦しい、過去の君を僕は見ていることしか出来ない。
当然のことだと人は言うのかもしれない、けど僕は、僕には一切存在しない記憶をどうにかして取り戻したくて、助け出したくて――。

「バディポリス結界!」

知らない誰かの声が聞こえた。
ぱちりと瞬きをして僕は顔を上げる。あの人は…誰だろうか、知らない人だ。僕が配属される前に移動したか引退した人なのだろう、とにかく見覚えのない名の知らない人。
君もハーティも目を大きく開いたままで何故か安心する。あまりの状況で忘れていた、あれは僕とハーティなんだ、あれが本来の姿なんだ。
奴が露骨に舌打ちを繰り出す。君を無理やり放り投げて奴はデッキを抜いた。
君の頬に小さく傷が出来ている。ふと自分の頬に触れたが…あんな小さな傷残るわけがない。無意識に自嘲の笑みを浮かべファイトの行く末を見届ける。君はハーティが助けてくれている、もう大丈夫だろう。
少し目を離した隙に奴のライフは残り1。あ、と声を上げる間も無く次の瞬間、名も知らぬバディポリスの攻撃が決まり奴の負けは決した。
大丈夫ですか、と君に駆け寄る名も知らぬあの人に何故か既視感を覚える。知らない人の筈なのに、何故か誰かと重なるような…、一体どうして?
ハーティの水色の髪が視界で揺れる。恐怖で眠りについた君を抱え、そのまま大切そうに抱き締めて。
応援や救助隊がぞろぞろと姿を現す。ああ、これでこの記憶は終了なのか。呆気ないような、恐怖を感じたような不思議な感覚。

ぱちりと何処かで泡が弾ける。聞いたことのある音だ、夢から覚める音。新しい夢を見るための音。視界が緩く黒に染まりはじめる。
これで夢は覚めてしまう、僕は再び力を持った大人に戻る。そう思い、自分の拳を見つめた。
夢と現実がごちゃ混ぜになる。結界が張られて、〈彼〉が僕を助けに来てくれて、それで…それで?
何処からが夢で何処までが現実だったのかどうも思い出せない。――世界を見れば僕は思い出せるのだろうか。
そう思いそっと目を開く。
視界に入ったのは、毎朝見ているデコボコした白い壁紙。

「…あれ」
「…ナマエさん、目覚めたんですね!――お水とか飲めますか?」
「あれ、え、タスクくん」

僕の大好きな水色が視界に入る。ああ、僕は帰って来たのか。
安心すると同時に何故か途轍もなく大きな虚無感が僕を襲う。思い出して、僕はこれで幸せなんだろうか。
鈍い痛みに震える腕を少しだけ動かした。
ここが僕の過去の結果、その行動をしたからこそ生まれた僕の過ち。それを理解して、少しだけ眉を下げる。
結局僕は何が正しいのか、なにが間違っていたのかなに一つ理解できていなかった。
過去のことをハッキリ思い出して、僕はどうしたかったんだろう。激しい後悔と、拒絶。
タスクくんが僕の手をとってくれるまで、ただ僕は自分を責め続ける事しか出来なかった。
他のことを何も知らない、子供のように。


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