「ほら、これで冷やしてろ」
「……ありがとうございます」

公園のベンチにぐったりと横たわったまま、甚爾さんが近くのコンビニで買ってきてくれた保冷剤を紫色に腫れた額に押当てる。バットが直撃したところがズキズキと痛み、少し吐き気もする。懸賞金がかかっていることを分かっていたくせに油断していた自分にも、女子高生相手に大人げなく襲ってきたあのチンピラ共にも腹が立つ。

やっぱりあの小男、とどめを刺せばよかった。そうすれば今頃少しは気分が晴れていただろうに。

「もし頭の中の大事な部分が駄目になっていて、いつの間にか死んでたらどうしよう…」
「そのくらいで死にはしねーよ」

不安を口にすると、ビニール袋をガサガサさせながら甚爾さんが適当に相槌を打った。私は横になっているし、彼の方は足元に座っているので何をしているのか分からない。仕方なく、このまま話を続ける。

「でも、頭に衝撃を受けて昏睡状態になった人もいるって聞いたよ。次の日目を覚まさなかった人だって」
「俺も何度か頭を殴られたことがあるがこの通り死んでねぇだろ」
「甚爾さんはね。私は普通の女の子だもん」
「術式持ちがよく言うぜ」

甚爾さんはハッと鼻で笑った。同時に何か袋のようなものを開ける音が聞こえてきたが、起き上がる気力もなくて彼が何をしているのか目で確認できなかった。

「いつから自分の力に気がついた?」
「ほんの数日前。孔さんがママの家系に似たんだろうって」
「家系?」
「私のママのずぅっと昔のご先祖様がブードゥー教の女司祭だったって」

そう言うと、甚爾さんは納得したように「あー、なるほど。そういう…」と呟く。

「ブードゥー人形ならぬブードゥー人間か。自分を傷つけることで相手にダメージを与える、厄介な術式だな」
「自分に害はないと分かってるけど手首を切ったり、太ももを刺したりするのには勇気と勢いがいるけどね」

肉を切る感触とか神経が切れる時のブチブチという音とか中々グロい。だから本気でキレた時にしかやらないようにしている。甚爾さんに「ファミレスのカップルのあれもか?」と聞かれ、こくりと頷く。あの時親指のささくれの皮を関節まで思いっきり引っ張ったのだ。地味だが、足の小指がタンスの角に当たるのと同じくらい超絶痛いやつ。

「呪いも見えてんのか?」
「意識しないとあまり。見えても気持ちがいいものじゃないから、その方が有り難いですけど」
「ふーん。ってことは呪術師より俺みたいな対人間の仕事の方が向いてるかもしれねぇな」

呪力0の俺と違ってオマエはまだ選べるかもしれねぇけどな。そうぼやいた直後、「プシュッ!」という炭酸が抜ける音が聞こえてきて、私は目眩を感じながらも慌てて体を起こした。
甚爾さんはコンビニで買ってきた缶ビールをちょうどごくごく飲んでいるところだった。もう片方の手には“あたりめ”とでかでかと書かれたパッケージが握られている。さっきの袋のようなものを開ける音はこれだったのだ。
私はあまりの怒りで一瞬言葉を失った。

「信っっじらんない。人が死ぬかもって時に酒とつまみ買ってきたんですか?」
「しつけぇな…言っただろ、そう簡単に死なねえって。それに俺が他に何を買おうと俺の勝手だろ」
「孔さんのお金ですけどね。本当……まじで、ありえない……最低」
「あ?何キレてんだよ」
「キレてませんよ。私がキレてたら今頃甚爾さん、首から血を流してますよ」

吐き捨てるようにそう言い放つと私はまたベンチに横たわった。目をぐっと閉じて怒りをどうにか抑えようとした―――そうでもしないと、さっき拾っておいたバタフライナイフで自分の首を本当に掻き切ってしまいそうだから。それに急に体を動かしたから頭の痛みがますます増した気がするし。
 どうしてこんなにムカついているのか理由は分かっている。甚爾さんがパパにそっくりだからだ。
あの人もいつも私のことなんか後回しだった。仕事やお酒、女が同じくらい大事で、その次に私。家族なんだから、私やママのことを何よりも考えて欲しいのに。

大嫌いだ。私を一番に気にかけてくれない奴は皆嫌い。

「地獄に堕ちればいいのに」

無意識のうちに思わずそう悪態をついた。甚爾さんに対してではなく、パパに対して。
すると隣で「わーったよ」と面倒くさそうに文句を言う声が聞こえてきた。「めんどくせぇけど見てやるよ。さっさと起きろ、澄花」

「やだ」脳卒中で死んだら一生あんたのそばで文句言ってやる。あんたのせいで死んだのよって。
「我が儘言うな。ほら」

ぐんっと腕を引っ張られ、ぎょっと目を開けた次の瞬間には甚爾さんの顔が目の前にあった。さっきまで見上げていたその鋭い眼差しがすぐそばにある。普通は恥ずかしがって顔を背けるところだが、私は彼の虚ろな目をじっくりと眺めた。きっといつか私もこんな目になるな、と直感的に思った。もしかしたらもうなっているかもしれない。

「手ぇどけろ」そう言って甚爾さんは鬱陶しそうに保冷剤を持った私の手を払いのけた。そして前髪を後ろに掻き上げながら痣になっている部分を押したり、頭を動かして角度を変えたりした。
ゴツゴツとしているのに、まるで蜘蛛の足みたいに繊細な手つきだ。整っているけど人を食ったみたいな顔と筋肉隆々の強靭な体には全く似合わない。

「……やっぱり甚爾さん、女慣れしてますね」こういうところまでパパそっくりだ。すぐに甚爾さんは怪訝そうな顔をした。
「俺がこの歳で童貞だとでも思ったのかよ」
「いやそうは思いませんけど…。女の子の扱いが凄く慣れてるから」
「そういうオマエもだろ。俺みたいにいい男がこんな近くにいたら女は普通恥ずかしがる」
「だって私は……」

何も感じないから、と思わず口から出かかった言葉を飲み込んだ。今までの経験上、自分が他人に対して怒り以外の感情を持ち合わせたことがないと告白して人間関係が良好になった試しは一度もない。友人らしき相手は何人かいたが、私が周りに合わせて嘘をついたり、笑っていることに気がつくと薄気味悪がって離れていった。いつ思い出しても腹が立つ、最悪の思い出だ。

甚爾さんは急に口を噤んだ私に眉を上げたが、追求したりはしなかった。この人は元から私よりパパのお金に興味があるし、それに関係しないことはどうでもいいのだろう。私も逆の立場なら同じことをする。
 その後も甚爾さんは頭のあちこちを触ったり、じっくりと眺めていたが、やがて私の長い髪から手を引き抜いて診断を下した。

「瘤にはなっているが、縫う程の切り傷もねえし、骨も折れてない―――折れてたら今頃ゲロ吐いてるか気絶してるだろうしな。まあ、もしかしたら脳震盪を起こしてるかもしれないが、放っといたらそのうち治る」
「よかった」私はほっと胸を撫で下ろした。まだやらなきゃいけないことが沢山あるのに、ここで死んでしまったら、死んでも死にきれない。

腕時計を見遣ると、針はもうすぐ一時を過ぎようとしていた。やばい、時間がない。
この公園から走って行っても十分以上はかかるし、チケットも買わなくちゃ。っていうか、当日券まだ残ってるかな。

「あの、甚爾さん」私はあたりめを齧っている甚爾さんに恐る恐る尋ねた。「一時半から観たい映画の再上映があるんですけど…行っちゃ駄目ですか?」
期待はしていなかった。孔さんなら絶対に反対する。“病院に行くのが先だ”とか“呑気に映画なんて観ている場合じゃないだろ”とかなんとか。
だけど意外にも―――いや心の底ではきっと甚爾さんなら許してくれるかもという希望が少しあった―――彼は「四時間寝ないでいられるなら好きなことやりゃいい」とどうでもよさそうに言った。
私は内心踊り出したい衝動を抑えながら、冷静に「そうですか。ならいきましょう」とベンチから立ち上がった。まだふらついていたが、物事が自分の思い通りに進んでくれたので痛みは殆ど感じなくなっていた。
甚爾さんはビールを飲みながらゆっくりと後をついてくる。本当は急かしたいところだが、映画館に行くことを許可してくれたので我慢することにする。孔さんなら絶対こうはならなかった。

「澄花」

ふいに、甚爾さんが私の名を呼んだ。同時にビル風が吹き込んできて、私は髪を抑えながら彼を振り返った。

「何ですか?」
「オマエ、素出ている方がずっと可愛げあるよ」

彼が気まぐれに口にしたその言葉に、私は少しだけ心が揺さぶられるのを感じた。

本当に、本当に少しだけ。
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