甚爾さんが選んでくれたワンピースを着て全身鏡の前に立ち、じっくりと自分の姿を眺めた。自分で言うのもなんだけど、なかなかの出来栄えだ。
髪もうまく巻けているし、メイクだってアイライナーが瞼からはみ出ることなくこんなにきっちりと描けたのは初めてだ。凄く大人っぽい。
両目尻を指で下げて悲しげな表情を浮かべると「お集まりの皆さん、今日は母の旅立ちの日にお越しいただきありがとうございます。母は私にとって完璧な母親で……」とわざと声を詰まらせながら弔辞を述べてみる。いかにも泣き崩れそうになるのを必死に堪えようとしている娘って感じ。目にハンカチを当てるふりをして目薬を一筋目に垂らせばさらに完璧だ。
親戚たちは私が異常だということに薄々気がついているだろうけど、母親が死んだっていうのに涙一つも見せないなんて、と陰口を叩かれるのも、変に勘くぐられるのもできるだけ避けたいからうまく芝居を打たなくちゃ。
大丈夫。私ならやれる。
鏡の中にいる自分にそう言い聞かせていると、玄関口から「さっさと来ないと置いていくからな」という甚爾さんのイライラした声が聞こえてきた。迎えの車がやって来てもう一時間以上経つ。甚爾さんはそれまでずっと私の支度ができるまで待っていたのだ。
慌てて玄関に行くと、ブスっとした顔で片方の手で携帯をいじっていた甚爾さんと目が合った。
「おっっっせえ」開口一番にこれである。私は唇を尖らせた。
「他に気の利いた台詞言えないんですか。プロのヒモでしょ?」
「褒めて欲しいのか?甘ったれんな」
「だってこのワンピース選んだの甚爾さんですよ。少しは何か言ってくださいよ」
私が食い下がると彼は私の頭の先から爪先までまじまじと見つめた。その猛禽類みたいな鋭い眼差しに内心少しドギマギした。服の下も頭の中も全て見透かされているみたい。
「馬子にも衣装だな」
彼はそう感想を述べた。からかうような口ぶりで。
「ひっどい!髪もメイクも頑張ったのに」
「服だけは完璧だ。だがその他がガキっぽくて色気がない」
「十六歳に色気なんて求めないでくださいよ。ロリコンですか?」
「うっせぇなあ。準備できたんならさっさと行くぞ、時間がねぇ」
私は慌てて自分の腕時計を見た。
朝の七時五十分。甚爾さんと一緒にいるのも、こうやって言い合えるのも、あと三時間と十分くらい。
そしてその後すぐ、ママの葬儀が始まる。
◆
東京から車でニ時間弱。神奈川県鎌倉市の観光地の海とは真逆の山奥に私たち家族の家がある。自分の家なのに、私はこの家が嫌いだった。駅から遠いし、デザイン重視のせいで妙な間取りになっている不便なだけの悪趣味なデザイナーハウス。こんな家に住もうと思えるのは何かと理由をつけて殆ど帰ってこない人間だけだ。そう、例えば父親とか。
「久しぶりだな、澄花。会わないうちに背が高くなったな」
吹き抜けのエントランスに入るなり、二階に続く螺旋階段をちょうど降りていたパパが両腕を広げて出迎えてくれた。こんがりと日に焼けた肌にわずかに口元から覗くやけに白い歯が対照的だ。葬儀ということもあり、控えめな真っ黒なスーツを着ているけど普通喪に服している人ならわざわざ高級ブランドのゴールドのネックレスや腕時計なんてしないはず。この人は自分の妻の葬儀でもどうどうと見栄を張るし、世間体を気にする素振りさえ見せない。呑気なパパに怒りが沸々と湧き上がるのを感じた。
「久しぶり、パパ。元気そうね」
「上々だよ。シンガポールで立ち上げた事業が波に乗り始めてね」
皮肉で言ったつもりなのにパパは全く気が付いていない。ぺらぺらと仕事の話を続けるが私は適当に相槌を打ちながら殆ど右から左へと聞き流していた。
後ろにいた甚爾さんが「めんどくせぇー…」とばかりにため息をつく。私だって目をぐるりと回してやりたいが今はぐっと堪える。怒りを爆発をさせるのはもう少し先でいい。
「そうだ、澄花。お前に話したいことがあるんだ。仕事の件でね」
「仕事?」
ひとしきり仕事の話をしたっていうのに、まだ話し足りないのだろうか。無邪気で扱いやすい愚かな娘を演じるため、私は小首を傾げる。ママが昔からやってきたように。
「詳しくは書斎で話そう。そこのきみも来るといい」
そう言ってぼんやりと天井に吊るされたシャンデリアを眺めていた甚爾さんに声をかける。彼は「まじか」と怠そうに顔を顰めたが、断る理由が思いつかなかったのか渋々頷く。甚爾さんの契約は十一時まででいくら私を無事に家まで送り届けたとは言え勝手に切り上げることはできないのだろう。
「おいで」
手招きするパパの後について二階に上がり、自分の部屋と両親の寝室を通り過ぎて一番奥のパパが書斎と謳う部屋にたどり着いた。中に入るのは今日で二回目で、最初に入った時と何も変わらなかった。
おそらく商談用と思われる革張りのチェスターフィールドソファーに面するように置かれた書斎机の背後には読みもしないくせに買い集めた洋書やビジネス本が本棚の中に押し込まれている。そして何故か剣を両手に持った西洋騎士の甲冑が部屋の隅で妙な存在感を放っていた。
パパは私だけでなく甚爾さんにもソファーに座るように促したが、甚爾さんはそれを断って扉に寄りかかるように立った。今すぐにでもこの居心地の悪い空間から出ていきたいのが普段は鈍感な私でも分かった。パパは全く気が付いていないけど。
私が腰を下ろすと、パパもわざわざ書斎机に回って回転椅子に座った。
「そういえば、ママの件は残念だったな」ふと思い出したようにパパは言った。呆れた。まるで他人事みたいじゃない。
「……ママが死んで残念だと思うのは私だけじゃない。パパもでしょ」
「まあ、そうだな……」
冷ややかにそう返すとバツが悪そうに目を泳がせる。デスクの上で何気なしに組んだ左手の薬指にはママと同じ結婚指輪は付けていない。ママは死ぬ間際まで身につけていたというのに。
重苦しい沈黙が流れた。私は怒りを抑えるのに必死だったし、パパは何を話せばこの空気を変えることができるのか必死に考えているようだった。いつも気を遣われている側だったから、気を遣うことに慣れていないのだ。
「それでこいつに話って?」
助け舟を出したのはさっきからずっと黙っていた甚爾さんだった。パパのほっとしたような表情を見てますます嫌悪感が募った。
「そう!それなんだが、澄花、お前にいい話があるんだ」
私に、じゃなくてパパにとってでしょ?と喉から出かかった言葉を飲み込み、私は不機嫌なことを隠す努力もやめて偉そうに足を組みながら「なんなの?」と尋ねた。
「ママはもういないし、一人でこの家に住むのは寂しいだろう?できればわたしも一緒に住んであげたいがもうビジネスの拠点をシンガポールに移しているからそれは難しくてね。だからと言って大事な一人娘を日本に一人残すわけにはいかない…それで考えた。澄花、パパと一緒にシンガポールで暮らさないか?あの国はいいぞ。国民はみんなフレンドリーで陽気だし、教育設備もしっかりしている。経済も成長しているし、近々日本を追い越してシンガポールがアジアの最先端になる日も近いと言われているんだ」
「ふうん」
私は適当に相槌を打つ。シンガポールがどれだけ素晴らしい国かなんて御託はどうでもいい。パパと一緒に暮らすっていうとんでもない話は聞き捨てならないけど。
「でもね、パパ。悪いんだけど…」ここには友達が沢山いるからとか、異国の地で新しい生活を送るのは不安だとか、ママから離れたくないとか女子高生らしい定型文で断ろうとした時だった。パパは追い討ちをかけるようにさらにとんでもない爆弾を落とした。
「それにな、お前にパパのビジネスパートナーになって欲しいんだ」
「は?」
まるで金槌で背後から頭を殴られたような衝撃が走った。一瞬、目の前に座っている男が何を言っているのが分からなかった。
パパは愕然としている私を無視してぺちゃくちゃと喋り続ける。
「孔から聞いたよ。お前はママの先祖の力を引き継いでいると。ブードゥーというらしいな?凄いじゃないか!実は最近取引先で頑固な連中がいてね……こっちの提案を頑なに断るんだ。おかげで納期が遅れるわ、客から苦情がくるわ、散々なんだよ。だがもしお前の力を使えば、連中もこちらの言うことに素直に従って、仕事がますます捗るだろう。ああ、もちろんお小遣いは弾むぞ。欲しいものがあれば何でも買ってあげよう…」
「絶対に嫌」
心の中で思っていた言葉がついに口をついて出てきた。これ以上は我慢できなかった。激しい怒りが炎のようにメラメラと身体の奥から湧き起こり、全身が燃えるように熱くなるのを感じた。
「パパは私とママをこの趣味の悪い家に置き去りにしたんだよ。この三年間私の誕生日にも結婚記念日にもクリスマスにも帰って来なかったくせに今更利用しようとするなんてどんな神経してるの?それに分かってるんだよ、パパが向こうで女を作ってることぐらい。よくものうのうと何事もなかったみたいにママの葬儀に顔を出せたよね。ママの死の原因はパパなのに」
普通ならここで涙を流すところだろう。父親を責め立てながら泣き崩れる娘を見て今までの自分の行いにショックを受ける父親の図。だけど私もパパもそんなタイプの人間じゃない。普通とは違う。
私がこうして喚いているのは誰かに利用されそうになっていること、そして自分の所有物を奪われたことに対する怒りのせいだ。ママのためじゃない。
そしてパパは私と同じで人の気持ちをまるで理解できない。世界が自分を中心に回っていると信じている。だからこうして誘いを断ることは彼にとって一番許しがたい行為なのだ。だからパパは私を、ううん、私の力を必要としている。恐怖で家族だけでなく他人をも支配したがっている。
「つまりお前は……パパとは一緒に働くつもりはないと言ってるんだね?」
静かな声で尋ねる。さっきまで浮かべていた笑みは消えていた。
私が無言で頷くとパパは鼻柱を揉みながらハァーとため息をついた。
「なら仕方ないな」
カチャリと聞き覚えのない金属音がして、そちらに顔を向けようとするとこめかみから数センチのところで銃口を向けられていることに気がついた。
相手を確認するまでもない。そもそもこの部屋には私たち三人しかいないんだから。
「裏切らないって約束したのに」
「………」
甚爾さんは何も言わない。私と同じ、虚な真っ黒な目でまっすぐに見返してくるだけ。きっと私が話を断った場合には躊躇わずに殺す、そういう契約だったんだろう。
やっぱり大人って勝手すぎる。この人は違うかもって期待した自分が馬鹿みたい。
「お前は私の宝物だよ、澄花」
ぎゅっとワンピースの裾を握りしめながら俯く私を宥めるようにパパは優しい声色で言った。
「だがな、お前のいつもの癇癪に怯えながら生きていくのはまっぴらだ。パパにはパパの人生があり、何よりも大切な会社がある。危険分子は早い段階で取り除いておきたいのだよ」
だからパパと会社のために死んでおくれ。
まさかそんな台詞が実の父から告げられるなんて。
ろくでなしのクソ野郎だとは昔から薄々気がついていたけどここまでのクズだったとは思いもしなかった。
「ママに会ったらよろしく伝えてくれ」
パパが甚爾さんに手で何か合図を送るのが分かった。
こめかみに銃口が直接当てられる。こんな結末、予想だにしていなかった。計画じゃこうなるはずじゃなかったのに。
私は目を閉じる。落ち着いて。まだ方法はある。そう、この男を道連れにしてやるんだ。やり方は分かっている。私が“彼”の名前を呼びさえすれば―――。
「目を開けろ、澄花」
ふいに金属特有の冷ややかさが遠のき、いつもと変わらない甚爾さんの声が聞こえてきて、今すぐにでも“彼”の名前を口にしようと考えていた私はハッと我に返った。
反射的に目を開けると銃のグリップを私に差し出しながら不敵な笑みを浮かべた甚爾さんの姿が目に入る。ついでに彼の突然の行動に愕然としているパパの姿も。
訳がわからず戸惑う私に甚爾さんは肩をすくめた。
「言っただろ、裏切らねぇって。オマエを敵に回すと後が怖いんだよ」