「脈は正常、心拍数も安定しているし、瞳孔も開いていない。きみの妹は健康そのものだよ」
そう断言したのは野薔薇ちゃんがここまで連れて来てくれた女性で、名前は家入硝子さん。気怠げな雰囲気と右目下にある泣きぼくろが特徴的な美人さんで、診察を受けている間あまりの美しさに思わずどぎまぎしてしまった。一体何を食べたらこうなるの。
 纏っている白衣からして、彼女が五条さんが言っていた『医師免許を持っている奴』なのだろう。ダウナーな見た目に寄らずてきぱきしているし、突然の患者にも嫌な顔一つしない。まさに理想の医者って感じ。ただその分苦労も多いらしく、目の周りには濃い隈が覆っているけれど。

「家入さん、他に怪我とかはないですか?実は骨にヒビが入ってたりとか!」

そばでずっとはらはらと様子を見守っていた悠仁が口を出した。おいおい、さすがに骨にヒビが入っていたら分かるわ。あんたみたいに痛みに鈍感じゃないんだし。
同じ考えだったらしく「どこか痛い?」とやや呆れ顔の家入さんに聞かれ、私はぷるぷると首を横に振った。「……だ、そうだ」と兄に向かって家入さんは肩をすくめる。

「まあ、強いて言うなら寝不足だな。ここ最近あまり眠れていないようだし」
「え、そうなの?」
「あ―――…テストとか課題で忙しくて」

悠仁から探るような眼差しを向けられ、私は咄嗟に向かいの壁に興味深いものを見つけたふりをした。誤摩化しても悠仁にはお見通しだろうけど、こちらから話さない限り無理に問いつめたりはしないはずだ。
 神様は兄に優秀な頭脳の代わりに並外れた運動能力とデリカシーを与えた。一方で私にはそこそこの成績とそこそこの運動神経、宿儺に出会うという受難を授けた。おかげさまでこの三週間眠るのが怖くてたまらなかった。目を瞑ってしまえば、あの場所に辿り着いてしまいそうで。ベッドの上で横になるも気が張りつめていてしっかりとした睡眠はとれなかった。そしてようやく熟睡できそうと思った矢先に、五条さんが現れたのだ。神様は私に何か恨みでもあるのだろうか。あまり隈がでる方ではないのでラッキーだが、もしそうだったら今頃家入さんのようなくっきりとした隈が目の下を覆っていただろう。

「副作用がない睡眠薬でも出しておこうか?余計なことを考える前に寝落ちできるようなやつ」
「是非お願いします」

宿儺とのショッキング過ぎる記憶が脳裏に再生されることもなく眠ることができるのなら何だってする。毎回自分が死ぬシーンを頭の中で繰り返されるのはうんざり。しかも彼と再会したことによって首チョンパだけでなく溺死という新たなレパートリーが増えた。料理ならともかく、死のレパートリーなんて全然嬉しくない。

「それで?久しぶりに妹ちゃんと再会できて宿儺は喜んでいたかい?」
先ほどまで黙って壁にもたれ掛かっていた五条さんが口を開いた。そばには他の二人がいて、野薔薇ちゃんのお腹は哀しげな音を上げていたし(その度に野薔薇ちゃんは「私じゃないから」という顔をしていた)、伏黒君はまだ本調子じゃないのか、少し疲れているように見える。部屋に最初に入って来た時に家入さんが「きみも横になってなよ」と言うまで彼が怪我人だということに気がつけなかった。優しくしてくれる二人に迷惑をかけてしまい、罪悪感で心が折れてしまいそう。後でちゃんと謝らないと。

「凄く怒ってました。私が此処にいることが気に入らないみたいで…」
「理由は言ってた?」
「面白くないからだそうです。あの人を愉しませることが私の役目だって」うわ、口に出すとまたムカついてきた。宿儺のあの当然と言わんばかりの表情。完全にモラハラだ。本人には直接言えないが、私はあんたのために生きてるわけじゃない。

五条さんは先ほどのことを思い出し苦虫を噛んだような顔をしている私から今度は悠仁に向かって尋ねた。

「悠仁の方は宿儺と話したの?」
「いや…こいつ最近何言っても反応しないんだよな」

そう言って自分の左頬を指差す。そういえば、さっきそこから宿儺の口が現れたんだっけ。あの後すぐに気を失ったから反応できなかったけどなんだか凄いことになってない?一体どんな身体してんのよ。

「一度病院行った方がいいんじゃないの」
「これは医者がどうにかできるような問題じゃなくね?」

まあ、そうだけど。
妹として少し不安になる。悠仁がどんどん人間離れしていきそうで。元から運動神経は化け物じみてたけど他の面も含めてますます拍車がかかっている気がする。

そんなことを考えていると、先程から私たちの話を吟味していた五条さんが

「つまり宿儺は悠仁よりも妹ちゃんの方がお気に入りってことだね」と何気なしに言った。

悠仁と私が同時に「ゲッ」という顔をすると、それを見ていた野薔薇ちゃんが「やっぱり双子って反応が似るもんね」と伏黒君にこっそりと囁いたのが聞こえてきた。いやいやいや。

「こいつに気に入られようがどうだっていいけどさ、なに?こいつ澄花に手出そうとしてんの?引くんだけど」
「呪いとは言え宿儺も男だからねー。ぴちぴちのJKには弱いんじゃない?」

五条さん、絶対これ適当に言ってる。っていうかぴちぴちって何だ。他の皆も同じことを考えたらしく、怪訝そうな目で五条さんを見ている。よかった、変に思っているのが私だけじゃなくて。悠仁に至っては「澄花が……ぴちぴち?」と愕然としたように先ほどの言葉を繰り返していた。確かに兄は私が中学に上がってから他の男から異性として見られていることに気がついていないようだったし、認めたくなんてないんだろう。つまり、その、私もれっきとした女の子だなんて。いつか悠仁の知らない誰かと結ばれるかもしれないだなんて。

悠仁の中では、私はまだ庇護対象の小さな双子の妹のままなのだ。まあ、モテたことも彼氏もいたこともないからそれも仕方がないのかもしれない。

ふいに五条さんが大きな手で私の頭のてっぺんを軽くぽんぽんと撫でた。え、なに。急にパーソナルスペースを侵してきて怖いんだけど。

「ま、宿儺のことはそんなに気にしないでいいよ。向こうも妹ちゃんを傷つけるつもりはないだろうし」
「いや、私毎回殺されてるんですけど…」

もしかしてこの人、私の話を聞いてなかったの?あんなに詳細に喋らせたくせに右から左へと聞き流していただけだったとか?意外に真剣に聞いてくれるんだなあ、と感心した数分前の自分が馬鹿みたいじゃん。

「へーき、へーき。宿儺の性格からして本気で殺すつもりだったら初見で殺されていたよ。魂を生得領域内に閉じ込めて肉体に戻さなければいいだけなんだから。だけどそうはしなかったのは宿儺の方にも何か都合があったんだろう。それが何なのかは分からないけど、今の所は妹ちゃんに手を出したりはしない」

だからまた生得領域に入っても大丈夫!と軽蔑した眼差しを向ける私に五条さんは親指を立てる。宿儺自身も同じ様なことを言っていたし、間違ってはいないんだろうけど、その軽々しい口ぶりに、どうせ死んでも蘇るんだから大したことじゃないと言われている気がした。

でも、でも、でも…気にしないでいい、平気だなんて簡単に言わないで欲しい。
例え実際には死なないなんて分かっていても、『死』を経験しなければ私は戻ることができないんだから。あなたにとっちゃただの死かもしれないけど、私にはそれでさえも重過ぎる。

死なんて、一度の経験だけで充分だ。

私は俯いて膝の上で握った拳を見下ろした。髪のカーテンを作って自分の表情を読み取られないようにするためだ。こんなことで傷ついているなんて、と思われたくなかった。
その時、ごつごつとした大きな手が私の背中を優しく撫でた。こうして宥められるのは随分と久しぶりだったけど、その手は他の誰よりも知っている。子供に対する母親のような優しさが背中に触れる手から伝わってきて、私の心は五歳の女の子に戻ってしまった。
隣にいる兄の顔を見上げるのと悠仁が口を開いたのは同時だった。

「でもさ、澄花は俺たちや五条先生とは違うじゃん。生きるとか死ぬとか、そんな次元で暮らしてるわけじゃないんだし……なのに、こんな目に合うのは酷過ぎね?」

悠仁は多分私より私のことを理解している。だから自分の気持ちを上手く伝えられない私に代わっていつも言葉を紡いでくれる。今も昔もずっとそうだった。いつだって悠仁は私の味方だった。
 兄に対する愛情が込み上げてきて、さっきまで拳三つ分くらい距離を置いていたのに今ではすっかりお互いの肩が触れ合うまでに接近していた。不器用な私ができる唯一の愛情表現に、悠仁はきっと気がついているはずだ。

 先ほどの悠仁の言葉に五条さんは「まーそうだねぇ」と頷いた。「宿儺の第二の器になり得る可能性があるとは言っても妹ちゃんは悠仁とはタイプが真逆だしね。フィジカルもメンタルも」

……もしかして今遠回しに馬鹿にされたのだろうか。確かに私は悠仁と違って体力はないし、メンタルも弱いからあながち間違ってはいないんだろうけど。

「澄花が宿儺の生得領域に入らないようにする方法とかなんかないの?」
「妹ちゃんが何がきっかけで生得領域に入っちゃうのか分からない限り何ともね」
「そっか……」
「まあ、それはこれから詳しく調べていくとして。二人とも『エルム街の悪夢』って知ってる?」

私と悠仁はぽかんとした。

「あ、それ私知ってる。ホラー映画よね」野薔薇ちゃんが言った。勿論私もタイトルは聞いたことがあるし、リメイク版のCMを数年前に見た記憶がある。だけど今何故そんな話をするのか分からなかった。
「そうそう。ティーンエイジャーが眠っている間に殺人鬼に襲われて、夢の中で殺されると実際に死んでしまうってやつ」
「……話が見えないんですけど、それが虎杖の妹とどう関係あるんですか」同じ考えだったのか伏黒君が私の代わりに質問してくれた。いつものどこか冷めたような綺麗な顔に「さっさと本題に入れ」とありありと書いてある。

「なら知ってると思うけど劇中じゃ主人公たちは眠らないように試行錯誤するんだ。薬を飲んだり、寝ている相手を起こしたり、監視したりしてね」
「……えーっと、つまり寝るなってことですか?」
「まさか。そんな鬼みたいなことは言わないって―――でも夢は見ないでね」

目が隠れているから分からないけど、その時五条さんがウィンクしたような気がした。そうすれば難しく聞こえないと踏んだのかもしれない。でも一般人の私にとっては何の慰めにもならなかった。

「話を聞いているとどうやら妹ちゃんが夢を見ている間宿儺との精神的コネクションが強くなっているみたいなんだよね。そのせいで毎回ではないけどどこかで生得領域に入るきっかけになっているみたいなんだ。だから夢は禁止」

手を交差させてバツ印を作る五条さん。いやいや、夢を見ないようにするなんて絶対に無理でしょ。
少し離れた場所に立っている野薔薇ちゃんも伏黒君も「無茶ぶり過ぎだろ」と言わんばかりの表情を浮かべている。きっと私も同じ顔をしているに違いない。

私は助けを求めるように兄の顔をもう一度見たが、五条さんの言葉をしっかり真に受けて「寝れないのはアレだけど夢を見ないくらいならどうにかなるんじゃ…」とブツブツ言いながら何やら考え込んでいたので頭がくらくらとしてきた。

久しぶりの兄との共同生活に最初は心躍っていたけれど、この調子じゃ前途多難になること間違いなしだ。

人は夢を見るために眠るんだよ。

……


「よくあんな得体の知れない人の話を信用できるよね」
「得体の知れない人って五条先生?」
「そう」

その夜、私は‘‘本物’’の悠仁の部屋で彼のベッドを占領し、客用の布団を床に敷く兄のジャージ姿を眺めながら言った。
あの時は平気だったが、いざ夜になるとまた宿儺の生得領域に入ってしまうかもしれない恐怖ですっかりと怖じ気づいてしまい悠仁にそばにいて欲しいと泣きついたのだ。
本当は女子寮にある自分の部屋に悠仁を呼び寄せようとしたのだが、まだ荷解きが終わっていなかったし、隣の部屋の野薔薇ちゃんに「女子寮の神聖さがあいつの男の匂いで穢される」と反対されたため仕方なく私が男子寮に泊まることになったのだ。
伏黒君の部屋で寝ていた時は気がつかなかったけど、男子寮の部屋は女子寮のと広さは変わらなかった。悠仁は実家の時と変わらず部屋をきちんと整理整頓していて、自分らしさも少し加えていた。例えば壁に貼られているグラビアのポスター。まさか東京でも彼女を見る羽目になるとは。

「確かに五条先生は変わってるけど頼りになるよ。最強だし」
「それ誰情報?」
「……五条先生」
「最強な人は自分のことを最強とは言いません」

私はフンッと鼻を鳴らすとベッドに横になった。いつもならスマートフォンをいじっているところだが、今は充電中。それにあれは寂しさを紛らわせるためのものだったので、一人ぼっちではない今、必要ではなかった。

同じ部屋に悠仁がいる。私にとっては誰よりもずっと心強い存在が。
スマートフォンの画面越しじゃなくて、手を伸ばせばツンツンとしたその髪にも直接触れることができる。「助けて」と声を上げればすぐに駆けつけてくれる、そんな距離に兄がいるだけで私は安心だった。勿論そんなことは布団に寝転がっている本人には絶対に言わないけど。

「電気消していい?」
「いいけど、真っ暗にはしないでね」
「ヘイヘイ」

相変わらず暗闇が怖いのな、とぼやきながら悠仁が部屋の明かりをほんの少し残したまま消した。悠仁の顔や身体の輪郭がぼんやりと分かるくらいのちょうどいい明るさだ。
暫くの間、私たちはくだらないことを喋っていたが電話でも同じような会話をしていたことを気がついた途端話が途切れた。沈黙が続き、私は天井をじっと見つめていたがやがて悠仁がいる方向に寝返りを打った。
同じように寝返りを打った悠仁と目が合い、お互いに何も言わずに見つめ合った。

「ごめんね、宿儺のこと秘密にしてて」と囁く。悠仁は皆の前では追求しなかったけどきっと気にしていたはずだ。今までは、いつだって私のことを知るのは悠仁が初めだったのに、今回は他の皆と同じタイミングで知ることになった。しかも、疑似体験とはいえ、私は宿難に殺されている。もしかしたら悠仁をこの世界で一人ぼっちにさせてしまうところだったのだ。彼が怒っていても不思議ではなかった。

「………別にいいって。俺より澄花の方がしんどかっただろ。気にすんなよ」

兄の優しさに、罪悪感で心が張り裂けそうになった。同じ血を引き継いでいるのに私とは大違い。私は宿儺に頼んで兄を殺してもらおうかと悩んでいたのに悠仁の方は妹のことを一番に考えてくれる。その優しさに、感謝すると同時に図々しくも甘えたくなった。私が私でいられるのは、いつだって悠仁の前だけだから。

「はやく寝ろよ」と目を閉じようとする悠仁の肩を思わず掴む。ビクッと兄の体が揺れて「ど、どした?」と驚いたような声が上がった。私から兄に触れるのは随分と久しぶりだったので驚くのも無理はなかった。

「……ごめん。自分勝手だって分かってるんだけど……やっぱりまだ眠るのが怖い。またあいつに会いそうで」聞こえてきたのは自分でも驚く程泣きそうな声だった。兄がそばにいるとどうしても子供の時みたいに感情的になってしまう。

「何かあったら俺が気がついて全力で起こすって」
「約束ね。もし私が殺されている時に爆睡してたら絶対に許さないから」
「応。任せろ」

そう言って、私を安心させるように悠仁は手を布団からそっと差し出した。「眠れるまで俺が澄花の手を握ってるから」
「……それ、ちゃんとトイレ行った後洗った?」
「……オマエは兄貴を何だと思ってるの?」
「冗談。ありがと」

私は笑って悠仁の手を取った。

兄の大きな手に包まれた今なら何も怖くないような気がして私は目を閉じた。

「おやすみ、悠仁」



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -