目を覚ますなり、私は思いっきり空気を吸い込んだ。生きている。宿儺に水中に頭を押えつけられ、肺が爆発しそうになり、意識喪失し、最終的には心停止に陥ったものの、まだ生きている。これほど空気が美味しいと思ったことはなかった。まだ実感はできないけれど、首から上が水上にある。呼吸ができる。
 あの宿儺の話でも全部が嘘ではなかったみたいだ。彼の生得領域から出るには確かに一度死ぬ必要がある。だが現実で死ぬことはない。この不可思議な体験をしたのはこれで二度目だが、ようやく彼の嘘か真か分からない言葉を信じることができた。もう二度とあんな目には合いたくないけれど。

 暫くの間、ぼんやりとした意識の中私を見下ろす見覚えのない板張りの天井をひとしきり眺めた。此処が一体どこなのかはこの際どうでもよかった(どうせ悠仁の部屋だろうし)。背中を受け止めているのはふかふかのベッドで、開いた窓から入ってきたそよ風が私の髪を優しく揺らす。どこからか人の話し声や雉鳩の鳴き声が聞こえてくる。あの地獄のような場所とは大違い。此処は穏やかで、安心できる。悠仁のことが気にかかったが(まじでどこに行ったの?)、私は心底疲れていた。だって一度殺されたんだから。無意識にこの空間では命を脅かされることはないと判断したのか、ずっとピンッと張っていた気も自然と緩む。ああ、もう駄目。耐えられない。五条さんに早朝から叩き起こされてから少しも休む時がなかった。
このまま眠ってしまおう、と兄のベッドの上で目を瞑ろうとした時だった。

「おっ、起きたか」

聞き覚えのある声に眠気が一瞬にして吹き飛んだ。今までこの部屋に自分以外の誰かがいるなんて全く気がつかなかった。でも思い返してみれば、宿儺の生得領域に引っ張られる寸前兄の他にもあの人がいたではないか。
慌てて声がした方向に顔を向けると、黒のゆったりとしたスウェットに身を包んだ伏黒君がベッドのそばにある椅子に腰掛けながら私をじっと見つめていた。

 その黒い玉のような目と目が合った途端、身体全体が熱く燃え上がった。どうしよう、どうしよう。伏黒君に寝顔を見られてしまった!
昔から私は寝相が悪く、まだ悠仁と同じ布団で眠っていた時は朝まで彼を蹴飛ばし続けた挙げ句毛布を独り占めしていた。しかも身内のお祖父ちゃんからは「アメリカバクより酷い面だな」と言われるほど寝顔は最悪なのに。
すぐさまベッドから身体を起こしながら口元をさりげなく袖で拭う。よかった、涎は出ていないみたい。

「あ、あの…悠仁は?」たった一言なのに口にするだけで精一杯だ。
「オマエが急に倒れてから虎杖は五条先生を、釘崎は家入さんを呼びに行った。俺はここで目を覚ました時に備えて待機」

伏黒君は何事もなかったかのように淡々と答えた。本当に同い年の男の子とは思えないほど冷静だ。普通ならからかってくる場面のはずなのに。またしても自分の中で伏黒君の好感度が急上昇した。これ以上上がるとは思ってもみなかったけど。
ちょうどピザの空箱を折り畳んでいる途中だったのか、その両手には小さくなった空箱が握られている。私はベッド脇に置いてあるサイドテーブルにまだ一口くらいしか食べていないピザがちょうど三人分、皿の上に置いてあるのに気がついた。どうやらせっかくの食事を私のせいで台無しにしてしまったようだ。最悪。

「何か飲むか?コーラくらいしかねえけど」
「あ、お願いします……」

既に罪悪感で押し潰されそうだったけど、せっかくの申し出をありがたく受けることにした。あれほど水を飲んだはずなのに喉がからからで舌が歯の裏にくっついてしまいそうだった。

伏黒君は冷蔵庫に向かいながら途中で空箱をゴミ袋に入れると慣れた手つきで戸棚からコップを取り出し飲み物を注いでいく。
まるでこの部屋にあるもの全部把握しているみたいだな、と彼の流れる様な動きを眺めているとふいにあることに気がついた。さっと部屋全体を見渡す―――整理整頓された室内(悠仁もそれなりに掃除はするけどこんなに埃一つないなんてありえない)、机の上に置かれている実話系の本(悠仁が漫画以外に本を読んでいる所なんて見たことがない)、グラビアのポスターの代わりに壁に掛けられているのはどこの誰が描いたかも分からない花の絵。
伏黒君がこちらに向かって背を向けている間、こっそりと自分の身体を覆っている毛布の匂いを嗅ぐ―――我が家でずっと使っているのとは違う柔軟剤の香りに背筋が凍り付きそうになった。

伏黒君がコップを手にこちらに戻ってくると私は恐る恐る尋ねた。

「あの、ここって悠仁の部屋じゃないの…?」
「いや、俺の部屋」

あのクソ野郎。
今までに一度も感じたことがない程激しい怒りが電光石火のごとく五条さんに対して湧き起ったが、目の前にいる伏黒君の整った顔を見てすぐに羞恥心の方が勝った。
慌ててベッドから枕と毛布を握りしめて飛び降りる。

「ごめん!五条さんからここが悠仁の部屋って聞いたから…!あ、毛布は洗って返す!枕カバーも!」
「別にいい。あと気をつけろ。五条先生そういうところあるぞ」

いいから寝てろよ、と促す伏黒君に私は首を横に勢いよくぶんぶんと振った。急に立ち上がって目眩がしたし、少し吐き気もするけど気になる男の子のベッドを使うなんて恐れ多いし、心臓に悪過ぎる。それにこれ以上伏黒君に迷惑をかけたくなかった。
本当に涎なんか垂らしてないよね?と横目で剥き出しになったベッドカバーを再度確認する。

「それでこそブラザーの片割れだな」

頑なに横になることを拒否する私に伏黒君が何か言いかけようとしたその時、向かいの窓からぬっと何かが現れた。あまりに突然のことで私はびっくりして後ずさりした拍子に壁に頭を思いっきりぶつけてしまった。伏黒君に「大丈夫か?」と聞かれて、なんとか頷く。痛い。明日になったらきっとたんこぶになっているなこれは。

窓からこちらを見つめているそれが人間だと理解するのに暫くかかった。最初はグリズリーが出たと思ったが、実際は顔に特徴的な傷がある男の人が部屋の外にただ立っているだけだった。それだけでも迫力はあるが。

とにかくごついし、でかすぎる。

兄も筋肉質で体脂肪率が一桁だが、この人は五条さんと同じくらい上背がある分もっと凄そうだ。鍛えられた大胸筋のせいで身につけている白のTシャツがはち切れそうになっているが本人はさほど気にしていないらしい。
 伏黒君は彼を見るなり「めんどくせえのが来たな」という顔をしたが、私は未だに状況が把握できずに呆然としていた。他人の部屋の前で盗み聞きしていた挙げ句話に入ってくるような人間にどう対応すればいいのかさっぱり分からない。っていうかブラザーって悠仁のこと?あいつこんなゴリラと友達なの?
彼(意外に歳はそんなに離れていないのかもしれない)は面食らっている私たちに構わず続ける。

「いいぞ、ブラザーの妹。そのタフさ、気に入った……まあ尻はまだまだ改善の余地はあるが」

え、私もしかして品定めされてる?出会ってまだ数秒しか経っていない人に?っていうかその発言セクハラじゃないの?

しかもこの人とんでもない勘違いをしている。私はフィジカル的にも、メンタル的にも、タフとは程遠い。ただ人に迷惑をかけるのが嫌なだけだ。
 私は助けを求めようと伏黒君を見たが、彼は「何も突っ込むな」とばかりに首を振った。どうやら伏黒君はこのゴリラのことが苦手みたいだ。うん、なんとなく分かる。初対面だけど私も生理的にこの手のタイプはちょっと無理かもしれない。

「ブラザーの妹よ。どんな男が好みだ?女でもいいぞ」

ちょうどそんなことを考えていたら同じような質問をされた。合コンかよ。一度も行ったことないけど。
あなたとは真逆の人がタイプです、とよっぽど言ってやりたかったが(さっきのセクハラ発言をまだ引きずっていた)、口にはせず「………頭が良くて、ぶっきらぼうだけど本当は優しくて…どこか影がある人。ティモシー・シャラメみたいな」と答えた。その間伏黒君の方は見ないようにしていた。最後に慌てて一番好きな俳優の名前を付け足したけど、どの条件も伏黒君に当てはまるって本人に気がつかれていないだろうか。

ゴリラは自分から聞いてきたくせに至極つまらなさそうな顔をした。どこか落胆しているようにも見える。私に一体何を期待していたんだろうか。普通の女子高生なら大体同じようなことを言うと思うけど。

「退屈だな」

うっっっざ。「…そうですか」
なんだろう、五条さんとはまた違ったウザさがこの人にはある気がする。これで悠仁と同じ『身長と尻がでかい女の子』がタイプだったらどん引きだ。私だって背が高くてお尻が大きな女の子は好きだけど、私が言うのと彼が言うのとでは違う気がする―――生々しさが。

 すっかり私に興味を失くしたゴリラは今度は伏黒君に目を向けた。その瞳が涙で光っているのを見て思わずぎょっとした。もしかしてこの人泣いてる?私が彼が期待するような答えを言わなかったせいで?怖いんだけど。

「ブラザーはどこだ?」
「さあな。食堂にでもいるんじゃないのか」

さっき私に言った事とは全く違うし、五条さんからは食堂は寮から一番遠い場所にあると聞いていたが、私は黙っていることにした。どうやら伏黒君と考えていることは同じらしい。出会ってまだ少ししか経っていないが、既に私はこの人のことが嫌いになっていた。
 ゴリラは涙を拭って満足げに頷くと、その体躯に似合わないスピードで食堂に向かって駆け出して行った。あの人、一体何だったんだろう。そもそもブラザーって何なの。

「伏黒君、あの人誰?」二人っきりになると、私は思わず尋ねた。先ほどの宿儺との血腥い再会はあの人のおかげですっかり色褪せてしまっていた。
「京都校の東堂。俺も初めて会った時はあんな感じだった。あんまり気にすんな」
「へえ……」

そうなんだ、と相槌を打ちながらふと思った。ってことは伏黒君もあのゴリラの質問に答えたんだろうか。彼の好きな女の子のタイプってどんなのだろう。やっぱり清楚系かな。

「伏黒君は……」
何て答えたの、とさりげなく尋ねようとした時だった。


「澄花!!!!」


部屋の扉が大きく開いたと同時に聞こえてきた双子の兄の叫び声に私の言葉はあっという間に飲み込まれてしまう。

「悠仁?!」
「目が覚めたんだな!?大丈夫か!?」
「大丈夫っていうか…あんたまじでうるさ…」

と、そこで悠仁の後ろに五条さんがいることに気がついた。向き合っている伏黒君と私を見るなりニヤニヤと「あれ、お邪魔だった?」と笑いかけてくる。

先程まで一世一代の勇気を振り絞っていた私は、こっぱずかしいやら腹立しいやらで、手に持っていた枕を五条さんに向かって思いっきり投げつけた。

伏黒君の枕だと思い出したのはそれが悠仁の顔面に直撃した直後だった。




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