「悠仁、ちょっと付き合ってよ」
「別にいいけど…何すんの?」

ベッドの上でうつ伏せの状態で漫画を読んでいる悠仁に私はニヤリと笑った。

「ニケツで下り坂を全力疾走」
「……は?」

返事が返ってくるまで一瞬の間があった。
さっきまで上の空で返事をしていた兄は顔を上げて扉にもたれかかりながらキーリングをくるくると指で回す私を怪訝そうに見つめた。



呪いの襲撃に遭って早一週間が経過しようとしていた。
幸い身体に後遺症はなかったが、大事を取って医務室で硝子さんの監視の元今日まで寝泊まりを続けていた。簡易的な入院と言ったところだろう。

 後から分かったことだが、あの女の子を死に追いやった呪いは、私が川に辿り着いた時点で悠仁とその同級生たちが祓ってしまったらしい。そいつの最期を見届けることができず残念だったが、喜びの方が大きかった。これで彼女も彼女の両親も少しは報われるだろう。
一方で、私を川に突き落とし、こうして寝込むきっかけを与えくださったあの継ぎ接ぎだらけの呪い――名前は真人――はまんまと逃げおおせ、いまだ見つかっていない。地獄に落ちればいいのに、とこの一週間信じられないほどの検査を受け、薬を与えられる度に何度もそう呪った。

 だが嬉しいことも少しはあった―――入院している間絶対安静で外に出ることができない私のために沢山の人がお見舞いに来てくれたのだ―――悠仁はもちろん、野薔薇ちゃんや伏黒君(伏黒君が現れた時は心臓が口から飛び出るかと思った)、二年の先輩たち、七海さんに伊地知さん、そして最終日にはまさかの五条さんまで。
五条さんに至っては「これ退院祝いに」と荷台付きのクロスバイクをプレゼントしてくれた。何故自転車…?と首を傾げると「通学で高専から最寄り駅まで時間がかかるし、帰りの坂道しんどいでしょ」とのこと。確かにその通りだ。毎回伊地知さんに送り迎えをしてもらうのも悪いなと思ってたところだったのでありがたく受け取った。だが何気なしにそのクロスバイクの値段をスマホで調べてみると想像していたよりも桁が一つ違っていたので背筋がゾッとした。なんて物を子供に買い与えるんだ、あの人は。

「貰えるだけ貰っときな。あいつ金銭感覚ガバガバだし、気にしてないって」

こんな高価なもの貰えないです、無理です、どうしたらいいですか、とかつて五条さんの同級生だった硝子さんに相談すると彼女はどうでも良さそうにそう答えて空になった輸液溶液を新しいものに変えた。

「それに申し訳ないと思ってるんじゃないの。あんたを田舎から引っ張り出してこんなことに巻き込んだのはあいつなんだし」

そうなのかな。もしかしたらそうかも。だけどあの五条さんに罪悪感があるなんてまるで思えないんだけど。

まあ、でも硝子さんの言う通りだ。物に罪はないし、五条さんのせいで事態がややこしくなったのは間違いないんだし…とまあ色々言い訳を考えたものの、結局は素直に受け取ることにした。こんな高価なもの、もう二度と手に入らないかもしれないというのが一番の理由だった。

そして、話は冒頭に戻る。

「てか二ケツって犯罪じゃないの?」
「じゃあ警察が見張ってないか確認する」

そう言って私は悠仁の肩を支えにして荷台の上に立ち上がった。

「危ねぇって!!」

私の突然の行動に悠仁はバランスを崩しそうになって悲鳴を上げた。高専を出てからまだ五分足らず。下り坂までまだ距離があるというのに、私たちを乗せた自転車はフラフラと道路の両端を右往左往する。今車が前方からやって来たら避けられる自信はない。確実に死ぬ。

私は悠仁の耳元で怒鳴った。

「運動神経引くほどいいくせに何でチャリ乗れないのよ」
「お前の行動が予測不可能なんだって!何で大人しく座ってたのに急に立つわけ!?」
「だって警察見張れって言ったじゃん!」
「言ってねぇって!!!」

ギャーギャーお互いに文句を言いながらどうにか夜の道を駆けていく。街頭のほのかな光と自転車のライトだけが唯一の光だった。

十月に差し掛かったということもあり、わずかな冷気を含んだ風が心地よく、私は目を瞑った。二人乗りで荷台に立ったまま目を閉じるなんて自殺行為なのは分かっている。私らしくない。だけど目の前にいるのは誰よりも信用している双子の兄だ。悠仁がいれば、私はどんなに無謀で危険なことでも挑戦できる―――何があっても悠仁が守ってくれると信じているから。

「……宿儺と何かあった?」
「何にもないよ」

きっと気を遣ってくれていたんだろう。入院している時は一度だって宿儺のことは口にしなかったのに、私がリラックスしている瞬間を見計らって、さりげなくそう尋ねてくる。でもその手には乗らない。
宿儺の生得領域で起こった出来事を話せば、きっと悠仁は怒るに決まってる。

あれから宿儺の生得領域には足を踏み入れていない。処方された薬もやめた。前のように夢を見ても宿儺が突然現れることもない。彼は約束を守っている――今のところは。

私は、自由だった。

なのにどういうわけか彼の名前を聞いて心が揺さぶられていた。それは多分、今まで彼に対して抱いていた恐怖心がすっかり根付いてしまっているからだろう。
せっかく自由になったはずなのに心はまだ彼に支配されているなんて。
こんなの、なんだか悔しい。

「本当に、何にもない」

私は自分に言い聞かせるようにそう言った。
もう彼のことを考えるのはやめよう。宿儺は私の人生から消えた。次に会うのは死後の世界だ。
きっと今頃あいつはあの暗く、不気味な世界で私の死を待ち望んでいることだろう。でもそう簡単には死んでやらない。狡猾に、しぶとく生き続けてやる。あいつが諦めるまで、ずっと。

ゆっくりと目を開ける。もうすぐ下り坂だ。学校から帰ってくると忌々しい坂道に変わる。だけど今は道がくねくねと曲がっていて、まるでジェットコースターみたいだった。

「悠仁、これ聴いてみて。最近のお気に入り」

そう言って私は兄の両耳にイヤホンを押し込むと片手でスマホを操作して音楽を流した。大音量で。
悠仁は「鼓膜破れるんだけど!」と文句を言ったが私は返事をする代わりに音量を最大までに設定した。

「あー!捕まったらお前のせいだかんな!」

そう悪態をつくと、ヤケクソになった悠仁は勢いよく自転車のペダルを漕いだ。
坂を下り始めた瞬間、一気に浮遊感に襲われる。
髪が靡き、スカートがはためく。悠仁の肩をしっかりと掴んでいないと吹っ飛ばされてしまいそうだった。

疾走感と、恐怖と、スリル。

こうして生と死を間近に感じると、この数日の間で起こった様々な出来事が目の端を流れていく景色のように脳裏を過った―――ステンレス製の台に横たわる遺体、継ぎ剥ぎだらけの呪い、水中で光に向かって伸びた手、私の最期を愉快そうに笑って眺めていた宿儺…。

気がつくと、私は叫んでいた。ほとばしり出てきた。
そうすることであの時に感じた怒りや悲しみを振り払いたかった。

イヤホンを身につけているとはいえ、この咆哮は悠仁にも、彼の中に存在している宿儺にも聞こえているはずだ。

私はもう自由なのだと彼に分からせてやりたかった。

カーブを描きながら自転車のライトが夜の闇を切り裂いていく。
私は声が枯れるまで叫び続ける―――その間悠仁は一度も振り返ったり、ブレーキをかけたりはしなかった。

ただ片方の手をハンドルから離して、肩を掴んでいる私の手を黙って握りしめる。

兄の対する愛情がどっと溢れ出し、私はその手を握り返した。





「それでどうだった?虎杖澄花は」

自転車で下り坂を全力疾走する双子の兄妹を少し離れた場所から眺めながら、袈裟を纏った男が隣にいるもう一人の男に尋ねた。

「夏油だって一度会ったことがあるんだろ。聞いてどうすんの」
「私は一度すれ違っただけだからね。直接話したことがあるのはきみだけだよ、真人」

真人と呼ばれた継ぎ剥ぎの男は一瞬考える仕草をしてみせると、

「別にどうってことないよ。どこにでもいる普通のガキって感じ。ああ、でも」ふと何かを思い出したように指をパチンと鳴らした。

「あの子の魂が面白い形をしていたから興味が湧いて触れてみたんだ――話は終わってないよ、夏油。そんな顔するなって――でも、触れることができなかった。今まで一度も見たことがない、最上級の魂だ。宿儺のそれと同等、下手するとそれ以上かも。さすがの俺でもあの子の魂の形を変えることはできない」

そう言って信じられないとばかりにハァーとため息をつく。

「皮肉だよな、本人は可愛げがなくて生意気なのに魂だけはあんなに美しいなんてさ」
「魂の美しさと持ち主の人格は別物だよ。でもなるほど、魂か……宿儺があの女の子に御執心になるわけだ」

彼女に初めて興味を持ち始めたのは、ただ虎杖悠仁に妹がいると判明し、ほんの好奇心で少し調べてみようと思っただけだった。だが探ってみると興味深いことが次々と判明した――二人が双子であること、五条悟が信頼を置いている呪術師たちに彼女の保護を頼んでいること、家入硝子から処方されている薬の効果や彼女の不可解な行動など…。
それらのことを踏まえて、彼女の同級生の遺体を使って餌を撒き、誘き寄せて、荒れ狂う川に突き落とした。内側に宿儺を飼う虎杖悠仁の目の前で。
そして川から引き上げられた瞬間の虎杖澄花の身体には、わずかに宿儺の残穢が残っていた。

思っていた通りだ。双子の妹と宿儺の間には何かがある。そして、宿儺自ら命を救うほど、彼女は特別な存在なのだ。

我が意を得たとばかりに夏油は口元に笑みを浮かべた。

「きっと虎杖澄花は宿儺にとってのもう一つの地雷だ。あの子に手を出せば、宿儺の協力を得るのは間違いなく不可能だろう」
「じゃあやっぱりあの計画は続行?」

真人の問いに夏油は頷く。

「宿儺を復活させるために虎杖澄花を利用する。人質として、そして第二の器として。虎杖と違って、妹は何の力もないただの人間だ。攫うのは簡単だよ」
「ただし、傷つけず、殺さず、だろ?」
「そういうこと」

俺我慢できるかな〜とへらへら笑う真人を無視して、夏油は離れて小さくなっていく少女の後ろ姿を見つめた。彼女は自らの価値など知りもしないだろう。自分がどれだけ特別な存在なのか、なんて。

叫び声を上げている少女を見据えながら、彼は笑みを深める。

「十月三十一日にまた会おう、虎杖澄花。今のうちに束の間の自由を楽しむといい」



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