気がつくと、私はふかふかのベッドの上に横たわっていた。
頭がうまく回らない中、もしかしたらここは天国なのかもしれないとぼんやりと思った。だけどもしここが天国なら指一本動かしただけで全身に鋭い痛みが走ったり、吐き気が込み上げてくることはないはずだ。つまり私はまだ生きている。どうしてベッドにいるのか分からないけど。

記憶がぽっかりと抜け落ちている。

人の気配がして太陽の光が差し込む窓際から反対側に視線を向ける。見覚えのある筋肉質の男の子がこちらに背を向けてベッド脇のテーブルの上にある花瓶に花を生けていた。そういえば、おじいちゃんが入院していた時も毎日かかさずお見舞いの花を持ってきていたっけ。おじいちゃんには「花なんぞ何の腹の足しにもならん!貯金しろ!」って一喝されていたけど、私はいつも綺麗だなって思っていた。

「悠仁」

あまりの嗄れた声に自分でもびっくりした。まるで別人みたいだ。
それでも―――小さくて、しかも老婆のような声だったのにも関わらず―――電光石火の勢いで悠仁は振り返った。
目が合うなり、今にも泣きそうな顔をして微笑んだ。いや、本当に泣いていたんだろう。目が腫れて真っ赤になっている。

「……おはよう」
「おはよう」

今が朝なのか昼なのかはたまた夕方なのか分からないけどそう返した。

そばに近寄るなり、悠仁は何も言わず私を抱きしめる。兄のツンツンとした髪が顔に当たってくすぐったい。こんな風に抱きしめられたのは何年ぶりだろう。悠仁の突然の行動に、驚きと人が来るかもしれないという恥ずかしさから、慌てて体を押し戻そうとする―――でも全力で突き飛ばそうとしているのに私の首筋に顔を伏せたままびくとも動かない悠仁を見て、途中で諦めるしかなかった。

どうやら死ぬほど心配させてしまったらしい。こんな悠仁は初めてだ。

一体どうしちゃったの?

戸惑いながらも、宥めるように兄の背中を摩っていると、自分の手が傷だらけになっていることに気がついた。その瞬間、ぼんやりとしていた頭の中がクリアになり全てが蘇った。川。洪水。

「そっか…三分、間に合ったんだね」
「三分?」
「ううん、こっちの話」

ようやく体を離してカップラーメン食いたいの?と不思議そうに小首を傾げる悠仁に私は首を振った。

「何日寝てた?」
「二日。さっきまで伏黒や釘崎が見舞いに来てたし、二年の先輩たちも昨日顔出してくれたんだけど…タイミング合わなかったな」
「最悪」

私がそう言ったのは皆んなが私の間抜けな寝顔を見たということが確定したからだ。あーあ。ますます吐き気が強くなった気がする。
呻き声を漏らしながら掛け布団を鼻下まで引っ張り上げると悠仁は苦笑いした。

「誰も寝顔なんて気にしてねぇって。人が生きるか死ぬかって時に」
「そうだけど…」
「実際、硝子さんがいなきゃまじでヤバかった。俺何にもできなかったし」

そう呟きながら悠仁の表情が暗くなっていく。私の目を真っ直ぐに見つめていたのに、視線が下がって膝に置かれた拳に向けられる。力を込めているせいで血管が浮き出ていた。

「悠仁…」

兄に手を伸ばそうとして、今更ながら体が各種のモニターに繋がれていることに気がついた。病室の備え付けのコンピューターには硝子さんの筆跡で数値が書かれたメモが貼り付けられている。
数字を確認するなり全身から血の気が引くのを感じたが、今はまず悠仁に私は大丈夫だということを伝えなければならないと思った。私は生きている。今大事なのはそれだけ。恐怖は後から自分で処理すればいい。

身動きする度に悲鳴をあげる身体を無理やり起こして、兄の顔を覗き込む。

「…でも、私を見つけてくれたじゃん。あの酷い洪水の中で。悠仁がいなきゃ助からなかったよ」

やっぱ双子の力ってやつ?と冗談めかして笑うと、悠仁の表情がますます暗くなった。

「あれは…」

拳に力を込める。悠仁の表情に己に対する怒りとは別の感情が加わったような気がする。なんだろう。怒りとは違うけど、似たなにか。

嫉妬だ。

わずかに残っていた冷静な部分が答えを導き出した時だった。

「……宿儺なんだ」

意を決したように、悠仁ははっきりとそう口にした。

「宿儺が、澄花を見つけた。俺は頭の中で聞こえるあいつの言葉通りに動いただけで…」

悠仁がまだ話していたが、私は殆ど聞いていなかった。外部からの音が突然消え失せ、代わりに自分の心臓の音がドクン、とやけに大きく鳴り響いた。

宿儺。

正直、兄からその名前を聞かされても、不思議と驚かなかった。というか、分かっていた。眠りに落ちている間もずっと、彼の声を聞いていた気がするから。

ぐっと唇を噛み締めると僅かな痛みと血の味がした。

すぐに音が戻ってきた。兄の言葉も、外の木々のざわめきさえもしっかりと聞こえる。
そして自分の心の声も。恐怖で覆い被さっていたはずなのに、激しい怒りによってヴェールは剥がされた。自分が何をしたいのか、今ならはっきりと分かる。

まだ悠仁は喋っていたが、途中で私は彼の言葉を遮った。礼儀なんて気にかけている余裕なんてなかった。

「……悠仁、悪いんだけど少し眠ってもいい?話さなきゃいけない人がいるんだ」
「………俺もそばにいるって選択肢はねぇの?」

私が言わんとしていることをすぐに察した悠仁は魅力的な提案をしてくれた。全てお見通しなのだ。私がこれからしようとしていることに大きな不安と恐怖を抱えてることなんて。
もし悠仁がそばにいてくれたらどんなに心強いだろう。存在を感じるだけで私は無敵になれる気がする。

でも、

「ごめんね」

これは私と宿儺の問題だから、と心の中で呟く。
悠仁と宿儺、そして私と宿儺の関係は似ているようでまるで違う。話し方も、態度も、その場の雰囲気も、人間は相手によって自分を変える。例え宿儺が誰にとっても最悪だったとしても、悠仁が知らない私と宿儺、二人だけの結びつきがあり、共有した記憶がある。その上に成り立った関係性なのだ。誰かが口出しできることじゃない。どれだけ近しい間柄であったとしても。

 私は悠仁が反対するだろうと思って身構えたが、彼は「そっか」とぽつりと呟き、

「お前とあいつの問題だもんな」

と言った。どこか諦めたような言い方だったけど、私を見つめる眼差しは慈愛に満ちている。

今この瞬間、兄ほど私を理解してくれる人間はこの世に誰一人としていないだろうと思った。
この兄がいるだけで、私は世界一の幸せ者だ。この状況がいかに最悪だったとしても。

ベッドに横たわると悠仁は掛け布団をかけてくれた。そして大きな手で私の前髪を撫でる。それだけで私は五歳の女の子に戻った気がした。全てが単純で、おじいちゃんと悠仁だけで世界が回っていたあの頃に。
本当は泣きながら悠仁にそばにいて、と縋りたかった。私を独りにしないで、置いてかないでと叫びたかった。
だけどそうできないのはお互い分かっていた。

双子の兄の存在を感じながら私は目を閉じる。

宿儺、と私は彼の名前を心の中で呼んだ。

するとすぐにあの匂いがした―――死の匂いが。彼が近づいてくるのが分かる。
目を開けると、そこは先ほどいた病室ではなかった。巨大な助骨のような物体。その下にある牛の頭蓋骨できた山。足首までの水位しかない血のように赤黒く、どろどろとした湖。初めてここに来た時は背筋が凍ったが、今ではすっかり見慣れた光景になっていた。
そしてその頭蓋骨の山の頂に、彼はいた。いつものように明確な殺意と悪意を持って。

「珍しいな。お前から俺を呼ぶとは」

宿儺は頭蓋骨に気怠げに頬杖をつきながら、湖に立っている私を見下ろした。「この俺を呼び出すとはいい度胸だ。それ相応の話なんだろうな?」

悠仁との会話を聞いていたんだろう。よかった、手間が省ける。
私の呼びかけに宿儺が応えてくれるとは思わなかったし、応えてくれるとしても気分を害して行動を起こす前に殺されるのではないかとひやひやした。だけど彼も純粋に興味を持ったのだろう。私のこの行動は想定外だったに違いない。彼も知っての通り、私は臆病者だから。

彼が興味を失う前に行動を起こさなくては。さもなければ何もできないまま殺される。

私は宿儺の目を真っすぐに見つめた。以前、許可なく見上げるなと一喝されたが、今度は何も言われなかった。

「……あなたには、感謝してます。あの洪水の中で、私が助かる見込みなんてなかった。正直、半分諦めてました。さすがの悠仁も、この川の状態じゃ私を見つけられないかもしれない、私はこのまま死ぬんだって。それでも生きたいと願ったのは、一人で死ぬのが怖かったから。だけど、最後にはこのまま死んでもいいと思ったんです。あなたの声が聞こえたから」

宿儺は何も言わなかったが、その眉がぴくりと動いた。
私は構わず続ける。

「悠仁の前で死にたくはなかった。きっとあいつはずっと自分を責め続けるし、私の死に耐えられない。だけど、あなたは違う。私が何度死んでも、あなたは何も感じない」

無意識に自分の首筋を撫でる。初めて出会った時、宿儺によって首と胴体を引き離された感覚が、今でも残っている。

「だから、もし誰かの前で死ぬとしたら、その相手はあなたがいい」
「オマエ、まさかとは思うが俺を口説いているのか?」
「違いますよ」

からかうようにニヤニヤと笑みを浮かべる宿儺に私は笑った。宿儺の生得領域の中でこんな風に笑うなんて初めてのことだった。

「言っておくが、俺がオマエを助けたのは何処の馬の骨とも分からん呪霊の罠に引っ掛かったのが気に入らなかっただけだ。言ったはずだぞ、オマエを殺すのは俺だと。分かったら、くだらぬ謝辞や前置きは辞めてさっさと本題に入れ」

黒く塗られた爪の間を見ながら宿儺は面倒くさそうに言った。どうやら私がだらだらと喋って本題に入るのをできるだけ先延ばしにしようとしていることはお見通しだったようだ。

宿儺にしても、悠仁にしても、私ってそんなに分かりやすいんだろうか?

仕方ない。さっさと本題に移ろう。そうでもしないと、呪いの王の機嫌を損ねてしまうから。

「……さっきも言ったように、私はあの時死ぬつもりでした。それでいいと思ってた」

そう言って、目の前にある牛の頭蓋骨を一つ手に取る。つるつると滑らかで、無機質。かつてこの骨に肉や皮膚が存在し、動いていたとは思えない。きっと私も死ねばこの骨と変わらない姿になるのだろう。皮と肉を剥げば人間と動物に違いなんてない―――死ねば地に帰るだけ。

「あなたも知っているはずです。人生は選択の連続だと。人は沢山の選択をして、失敗し、後悔し、そして成長していく。誰かの言葉や行動に左右されるものじゃない」

モルグで横たわっているあの女の子の死体が脳裏を過ぎる。まだ高校一年生だった。ありきたりの常套句だけど、これから輝かしい未来が待っていたはずだった。彼女が選択し、享受するはずだった知識、経験、挫折、幸福、すべてが呪いによって奪われた。そんなこと決してあってはならないのに。

「これは、私の人生なんです」

自分の声が震えているのが分かった。これから自分がしようとしていることに寒気がした。怖くて怖くて堪らない。それでも、やり遂げなければならなかった。
そうでもしないと、私の覚悟なんて彼には決して伝わらないだろうから。

私はその血のように赤い双眸をじっと見つめた。

「これ以上、あなたの気まぐれで私の生き死にを左右されたくない。自分の死に様は、自分で決める」

そう言って、私は牛の頭蓋骨にある角の部分を力一杯へし折る。そしてきょとんとしている宿儺の目の前で、自分の首の頸動脈をそれで勢いよく切り裂いた。
次の瞬間、切り裂かれた頸動脈から、血が噴水のように吹き上がり、羽織っていたシャツがあっという間に真っ赤に染まっていった。
反射的に出血を抑えようと手で傷口を覆うが、何の助けにもならない。息をしようとしても、喉がゴロゴロと鳴り、空気の泡が入ったどろどろの血が首から流れ落ちていくだけだ。

一度に大量の血液を失った私は、ふらふらと地面に座り込む。痛いなんてものじゃない。ただただ苦しい。
程なくして私は失血死するだろう。だけど満足していた。宿儺の生得領域に入ってからというもの、私は彼の言いなりだった。今回は初めて、自分で選択し、彼の生得領域から自力で脱出しようとしている―――私が私を殺すことによって。
この死は、決して無駄死になんかじゃない。何よりも意味のある死だった。

「愚かな女だ」

気がつくと宿儺がすぐそばまで来ていた。水面に写った彼の顔は呆れているようだった。

「そんなことをして何になる。俺が感心するっでも思ったか?覚悟を見せれば俺の気が変わると?言っておくが、オマエを手放す気などハナからない。自分の価値を過小評価し過ぎたな」

私は何も言い返さなかった―――いや言いたくても喋ることができなかった。涙が自然と溢れて私の頬を濡らしていく。それを見て宿儺は甲高い声でゲラゲラと笑った。人の神経を逆撫でするようなそれは生得領域中に響き渡った。耳を塞ぎたいけど、そんな力はもう残っていなかった。

「―――だがまあ、見せ物として少しは楽しませて貰った礼をせねばな」

散々大笑いした後に、口元に不敵な笑みを再度浮かべながら宿儺は出し抜けに言った。

「俺の条件を呑むならオマエを自由にさせてやってもいい」

この男は何でもお見通しだが、私の方はというと彼が何を考えているのか全く見当もつかなかった。
条件?
目で問いかけると宿儺は「大したことではない」とばかりに肩をすくめた。

「金輪際、俺はオマエの人生とやらにこれ以上干渉しない―――生きるも死ぬも好きに選べ。ただし、死後はその魂を貰う。これは縛りだ。守らねば罰を受けるのは俺もオマエも同じ」

悪くない条件だと思うが?と片眉を上げる宿儺に声を出すこともできない私は、肯定の意味を込めて瞬きをした。なんでもいい。宿儺から自由になれるなら。それに私にとって大事なのは、生きている間。経験し、学び、苦しみ、時には幸せを感じ、そして死ぬ。死んだ後のことなんてどうでもいい。今ならそれがよく分かる。

「いい子だ」

宿儺は猫撫で声で言った。今まで聞いたことがないほど、優しい声色だった。不気味でもある。

だけど意識が朦朧としている私に深く考える余裕なんてなかった。彼の狙いが何であれ、今はただ眠りたい。

ぐらりとバランスが崩れて身体が水面に向かって倒れ込みそうになると、私の身体を宿儺が受け止めた。そして着物が汚れることもお構いなしにその場に座り込む。抵抗しようともぞもぞと身体を動かそうとすれば「大人しくしていろ」と肩に回された手にますます力が籠った。今私はどういうわけか呪いの王、両面宿儺に抱き抱えられていた。

ただでさえ身体が大量の血液を失ってパニックになっているというのに頭の中は更にめちゃくちゃだ。
なに、なに、なに。なにが起こってるの?

動揺しているとふいに紋様の入った手が伸びてきて、私の前髪を撫でた―――眠りに落ちる前に、悠仁がしたように。この行為が私を落ち着かせるのだと彼は分かっているのだ。

途端に瞼が重くなり、自然と目が閉じていく。もうすぐ意識を失うだろう。そして死ぬ。それなのに、いつもと違って少しも怖くなかった。

自ら死を選んだから。
そして私は一人じゃないから。

「時が来れば、直々に俺が迎えに来てやる。それまでせいぜい足掻いてみろ」

低く、熱い声で宿儺は私の耳元でそう囁いた。

「またな、澄花」

彼の言った通り、なんて愚かなんだろう。

何度も殺され侮辱されもう二度と会いたくないと願っていた相手なのに―――自分の名を呼ぶその声が、今は酷く名残惜しかった。




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