医療の道に進みたいと決心したのはひとえに怪我ばかりする馬鹿な兄の役に立ちたかったからだが、それとは別に自分に向いていると思ったからだ。
昔から事故に合った犬や猫を拾ってきては完治するまで家に住まわせて祖父を困らせたり、誰かが転んで怪我をした時に備えていつも絆創膏をポケットに忍ばせている子供だった。つい最近だと生物の解剖で同級生の女子たちが悲鳴を上げている中、淡々とカエルの腹を切り裂いて見せた。そのせいでますますクラスから孤立する羽目になってしまったけれど、前述した幼少期の経験から血や死体には何の抵抗もないので自分のどこが周りとズレているのかいまいちピンッと来なかった。

そしてインターンをしてみて、やはり私には文字通りそちらの才能があることを確信した。
殆ど雑務ばかりだったけど、硝子さんは免許を持たない私にも時折メスを持たせてくれた。他の人に知られたら大問題だが、我が恩師はまるで気にしていないらしい。最も、私がメスを入れるのはかつて人間だった異形のものが大半だったけれど。
人の原型を留めていないそれを最初目にした時はさすがの私も動揺した。一体どうしたらこんな姿になるのか見当もつかなかった。遺体にメスを入れて中身を覗き見るまでそれがかつて人間だったとは俄に信じがたく、慣れるまで時間がかかった。そんな死体は死体安置所(モルグ)に、つまりは医務室の地下にまだまだ眠っているらしい。遺族にこの姿を見せることはできないから許可をとってあんたの研修用に遺体を使わせて貰ってるんだ、と硝子さんは煙草をステンレスの台で揉み消しながら淡々と言った。その綺麗な横顔からは何の感情も読み取れなかった。
悲しいけど、これは仕事で感情は必要ないものだ。硝子さんが物憂げに煙草に火をつけて顔の周りに煙を吹かしている間、私は躊躇わずにメスを入れる。

気がついた時には、死と煙草の匂いの違いが分からなくなっていた。



「あれ、妹ちゃん見ないうちに髪切った?ショートも似合うね」
「……それはどうも。何かご用ですか」

五条さんがいつものようにふらりと現れたのは、ちょうど私が机の上で解剖結果をまとめている時だった。声をかけられて肩越しに振り返ると彼は呑気に手をひらひらと振っていた。銀色に近い髪が、薄暗い空間の中でキラキラと光を放っている。

「新しい死体が来てるでしょ。少し興味があってね」
「ああ…そういえば五条さんが発見したんでしたっけ」
「正確には窓から報告を受けて僕は回収しただけだけどね。硝子いる?」
「硝子さんはいま休憩中であと一時間は戻りませんよ。私でよければ簡単にご説明しますけど」

私も手伝ったので、と何気なしに付け足すと、五条さんは面白がるような笑みを浮かべた。髪の毛と同じくらい真っ白な歯が露わになる。

「なに、妹ちゃんグロ耐性ある感じ?」
「これでも将来は医者を目指してるんで。死体くらい平気ですよ」
「へえ。さすが悠仁の妹だね」

意味深な言い方になんだかイラッとした。別に気にすることでもないのに。五条さんが感じ悪いのはいまに始まったことじゃない。無視よ、無視。
気を取り直して机の端に置かれたファイルを押し付けるように差し出した。

「遺体は十代半ばから後半。身につけていた制服からして正確には十五、十六歳、高校一年生ですね。ちなみに弓道部です。腕はいまいち」
「自信満々だね。どうしてそう言い切れるの?」
「私も同じ高校に通ってるからですよ。うちの学校、一年生は赤、二年生は緑、三年生は青いリボンをつけるのが決まりなので。弓道部だと思ったのは左手の親指の付け根に擦れた痕があったから。ちょうど矢が乗る部分なんですよ。初心者がよくやる怪我です」
「なるほど。続けて」診断書の文字を眺めながら五条さんが促した。
「死後三日が経過。顎に挫傷、足首の周りに縄のような跡があり、関節が粉々に砕けていることから何かが彼女の足を骨が折れるほどの力で引っ張ったせいで転倒、顎を地面に打ってそのまま引きずられたんだと思います。発見されたのは川ですよね?」
五条さんが頷いたのを見て、私はガッツポーズをしたい衝動を必死に抑えなければならなかった。

「やっぱり。内臓の代わりに大量の水と川でしか生息しないトビケラの成虫が付着していました。硝子さんは詳しく説明はしてくれなかったけど、死体発見現場はきっと川なんだろうなって」
「内臓の代わりにってどういうこと?」
「外傷が殆どないのに内臓はそっくりなくなってるんです。多分口から中身を引き摺り出されたんでしょう。咽頭にいくつか挫傷が見られましたし…」
「ふーむ」

五条さんは考え込むように顎を撫でた。私の言葉をじっくりと咀嚼しているみたいに。
やがて五条さんは、

「そこまで分かっているなら隠す必要はないか。実はこの遺体、A川で発見したんだよね」

と肩をすくめた。
「A川って……うちの学校の裏にある?」

どおりで被害者がうちの制服を着ているわけだ。歩いて五分もかからないその川は、最初こそ夕陽に照らされて赤く染まる様子に感動していたが、やがて視界の端にぼんやりと写る、ただの風景に変わっていった。
それによく見ると水は澱んでいて、空き缶やゴミが捨ててあり、妙な異臭する。換気をするために窓を開けると暫くの間その臭いが教室に充満するので、全校生徒の大半があの川を嫌っている。

「昔からあの辺りで水遊びをしていた子供が行方不明になる事件が十年に一度周期的に起こっていたんだ。十年も期間を開けば当時担当していた大体の呪術師は殉職しているか、はたまた引退しているか、別の呪いを追いかけているかのどちらかだろうし。賢いやつだ。でも、そろそろ年貢の納め時かな」
「どうするんですか?」
「明日悠仁たちと一緒に祓いに行くよ。今は腹が一杯で叩き起こすのに骨が折れるだろうな」

そう言って五条さんはファイルをテーブルの上に置いた。

「妹ちゃんはいつも通りに過ごしてればいいよ、その間に僕たちが対処してるから。ただ明日はあまり川には近づかないように」
「分かりました」

すると突然五条さんはじっと私の顔を見つめ始めた。え、なに。怖いんだけど。
何かついているのかな、と慌てて服の袖で顔を拭うと五条さんは笑って違うよ、と否定した。じゃあなんなのよ。

「妹ちゃん、あまりは無理はしないようにね」
「え、どういう意味ですか?」
「もっと人生を楽しめってこと」

五条さんは私の髪をくしゃくしゃに撫でると「じゃまた明日ねー」と呑気に手を振りながら部屋から出て行った。

残った私は唖然と去っていくその後ろ姿を見送る。支離滅裂で理解不能。
一体何なんだ、あの人は。



一人っきりになると、私は五条さんが置いたファイルに手を伸ばし、ペラペラと中身を捲った。
その時、発見時の写真が目に入ってきた。黒髪のポニーテール、青白い肌。白濁した目は大きく見開いていて、恐怖で表情が凍りついている。首に巻きついた赤いリボンは私がいま身につけているものと同じだ。
違うクラスだったけれど、もしかしたら廊下ですれ違ったことがあるかもしれない。

まだ十五歳。未来への希望に溢れ、やりたいことが沢山あったはずだ。本当は冷たいステンレス製の台の上で独りぼっちで横たわっているのではなく、暖かいベッドの上で家族に囲まれて、息を引き取るはずだったのかもしれないのに。

それなのに、呪いが突然現れて彼女を死に追いやった。
人の人生は、誰かに、もしくは何かに左右されるものではないのに。

「むかつく…」

彼女が最後に何を感じたのか、私には痛いほどわかる。

どうして自分がこんな目に?

だけど誰もこの質問には答えてくれない。
死の狭間で、ただ自分を手にかけた相手の愉しげな眼差しが、闇の中でずっとこちらを見返してくる。

理不尽に人に死をもたらす呪いも、躊躇いもなく息を吐くように私を殺す宿儺も、いつの間にか憎くて堪らない存在になっていた。



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