あの後、数学の先生は真っ青な顔でガタガタ震えている私を見て病気だと思ったのか、「体調が悪いなら保健室に行くか早退しても構いませんよ」と言ってくれたので、すぐさま机の上に置いてあった教科書と筆箱を鞄の中に突っ込むと逃げるようにして教室から飛び出した。その間もクラスメイトの薄気味悪いものを見るような視線が痛いほどに突き刺さった。もう誰も私と一緒にランチしたり移動教室に誘ってくれたりしないだろうな。そう思うと泣きたくなった。宿儺のせいで、何もかも台無しだ。
 校門に向かう途中、階段の踊り場で一方は僧衣を纏い、もう一方は小袖と袴のような服を着た男性二人とすれ違った。僧侶っぽい方に「おや、顔色が悪いけど悪い夢でも見たのかい?」と声をかけられたが曖昧に頷いて足早と階段を駆け下りた。ここはミッション系なのに、どうしてお坊さんがいるのか馬鹿な私はその時は何も疑問に思わなかった。
学校から高専に戻るまでの記憶は殆どない。激しい頭痛と疲労感で思わず吐きそうになるのを必死で堪えなくてはいけなかったから。乗り換えはどうにかなったけど、あやうく高専の最寄り駅を乗り過ごしてしまうところだった。そばで吊革を掴んでいたニット帽のお兄さんに「もう着いたよ」と声をかけられて自動ドアが閉まる寸前になんとか電車から飛び降りることができた。
それから高専まで続く長い坂道をフラフラとした足取りで数十分上り続ける。伊地知さんの車だとほんの数分の距離なのに、と私は時折延々と続く道のりを立ち止まって睨みつけた。もう9月とはいえまだ残暑が残っている。容赦なく照りつける太陽がこんなにも憎たらしいと思ったのはこれが初めてだった。
ようやく身体を引きずって高専の校門前に辿り着いた時には制服は汗でびしょびしょ、吐き気と頭痛はますます強くなっていた。

やばい、あと一歩でも動いたら確実に吐く。

情けなくその場に座り込む。周りが木々に囲まれてちょうど影が出来ていたから地面がひんやりとして気持ちがいい。このままこうしているわけにはいかないし、悠仁がちょうど通りかかったりしないかな、なんて都合のいいことをぼんやりと考えながら兄に助けを求めるためスマートフォンをタップしていると。

「おい、棘。そこにいるの悠仁の妹じゃね?」
「しゃけ」

悠仁の名前が聞こえて、のろのろと顔を上げると口元の下半分を襟で覆った小柄な同い年くらいの男の子とパンダがいた。
………ん?パンダ?

私は瞬きを繰り返した。今自分が見ている光景が信じられなかった。幻でも見ているのだろうかと思ったが、目を擦ってもパンダは一向にパンダのままだ。間違いない。パンダだ。本物のパンダだ。昔小学校の遠足で悠仁と一緒にガラス越しで見たことがある。でもこうして生で見るのは初めてだ。今朝テレビ観なかったけど、上野動物園から逃げ出して来たのだろうか。
おまけに二足歩行でこちらに向かって歩いてくる。パンダって肉食だったっけ?私は動物にそれほど明るくないのでパンダに関して何の知識もない。

パンダはテレビや動物園で遠目で見るよりもずっと大きく、筋肉質だった。
そして真っ青になった私の顔をまじまじと見ると、

「やっぱそうだ。顔のパーツが悠仁にくりそつ」と言い出した。

思わず自分の耳を疑った。嘘でしょ。このパンダ、喋ってる。動物園じゃなくてサーカスから逃げ出してきたわけ?それとも中に人が入っているのだろうか?
私は助けを求めるつもりで男の子の方を見た。男の子は特段驚いた様子もなく平然としている。私が見つめていることに気がついて、眠たげな目を一度瞬かせる。「あの、これって……」

「高菜」
「た、たかな?あの、私……」
「ツナマヨ」
「つなまよ…?」
「しゃけ」
「………」

駄目だ。全然話が通じない。二人とも同じ日本語を話しているはずなのに、会話が成り立たない。異世界に迷い込んだような感覚だ。おかげでますます頭が痛くなってきた。

「あー、棘は語彙がおにぎりの具しかないから一般人がコミュニケーションを取るのは難しいと思うぞ」

全く意思疎通ができていない私たちを見かねてパンダが仲介に入る。普通逆でしょと心の中でツッコミを入れたが、よく考えればおにぎりの具のみを喋るパンダとそれを理解する男の子っていうのも中々メルヘンチックで非現実的である。
私はどうにかこの状況を合理的に考えようとしたが、暫くして諦めた。キャパオーバーだ。考えれば考えるほどますますややこしいことになる。代わりに聞かれたことに答えることだけに思考をシフトチェンジした。

「で、こんな所で座り込んでどうした。えーっと……」
「澄花です。あの……」
「俺か?俺は二年のパンダ。こっちはタメの棘な」
「しゃけしゃけ」
「はあ」

ってことは悠仁の先輩か。パンダという名前を聞いて思わずそのまんまじゃんとツッコミを入れてしまいそうになるがぐっと堪えた。聞かれたことだけに集中するのよ私。

「体調が悪くて、ちょうど悠仁…兄を呼ぼうと思っていたところで……」
「悠仁なら今東堂から逃げてるところだから中々捕まらねえぞ。硝子のとこに連れて行こうか?」

有り難い申し出だった。硝子さんには昨日会ったばかりだけど、五条さんよりずっと信用している。医者としての腕も確かだ。きっとこの頭痛や吐き気もすぐに治してくれるはず。
こくりと頷くとパンダ…先輩?は、「任せろ」とポーズを決めてみせた後、私の47kg前後の体重をもろともせず軽々と肩に担ぎ上げた。あまりに急だったので思わず「うげぇっ」と女子高生らしかぬ声を上げてしまうが、パンダ先輩はお構いなしだ。「体動かせないならこっちの方が楽だろ」と。まあ…そうなんだけど。そばにいた棘と呼ばれた男の子と目が合うと、彼は大丈夫だと言わんばかりに親指を立てた。それを見てますます私は不安になってきた―――だって相手は語彙がおにぎりの具しかない初対面の男の子だ。手放しで信用しろっていう方がおかしい。

「……あの、やっぱり…」
「パンダーッシュ!!」

自分で歩きます、というか細い声はパンダ先輩の雄叫びにあっさりとかき消される。まじ?
その結果、私は医務室に辿り着くまで安定しているとは言えないパンダ先輩の肩に振り落とされないようにしがみついたまま、下着が見えないように手で必死にスカートを抑える羽目になった。おかげで車酔いした時のようにますます体調が悪化したのは言うまでもない。
私は悠仁の先輩方に気つかれないようにそっとため息をついた。

本当に、今日は最悪な一日だ。

……


「君か。今日はどうした?また宿儺に寝込みを襲われたのか?」
「そんなところです…あと頭痛と吐き気を抑える市販薬ありませんか?出来ればナウゼリンかロキソニンがいいです」
「あるよ。ちょっと待ってて」

そう言って硝子さんが薬棚を探っている間、私は医務室をぐるりと見回した。こうして寮以外の建物に入るのは初めてだった。呪術高専という名前から勝手に漫画やアニメにあるような魔法陣が書かれた壁やホルマリン漬けにされた見た事がない生物が入った小瓶などを期待したが、普通の高校の保健室と殆ど変わらなかった。そう、''殆ど''。私はちらりと部屋の奥にあるカーテンが引かれたベッドに目をやった。ベッドは四つ。カーテンは引かれているけれど、衣擦れや呼吸音が聞こえてこない。それに、この匂いは…。

「で、そこの二人は付き添いか?」
「そんなとこ」
「しゃけしゃけ」

硝子さんの言葉に背後にいたパンダ先輩と棘先輩が答える。私はベッドから二人に視線を向けた。まだいたのか。いや、有り難いのだけれども。
私は昔から自分のことは自分で解決するタイプだった。宿儺のこともできることなら自分でどうにかしたかったが、さすがに呪いの王相手にただの女子高生がどうにかできるわけがないので今回だけは特別に例外を作った。

悠仁を頼る。五条さんのような大人たちに頼る。家族以外の人間を信用する。

それでもまだ悩みを他人に打ち明けるのには抵抗があり、ましてやさっき会ったばかりの人たちに宿儺の件を持ち出していいのか分からなかった。なので今は私の状況を把握している硝子さんと二人っきりになりたい。それに彼女には頼みたいことがあった。
そこで私はぎこちなく愛想笑いを浮かべた。おじいちゃんが通っていたスナックのママが営業時間を過ぎても居座っている私たちを追い出す時によくこんな笑顔をしていたっけ。

「あの、お二人ともここまで連れて来てくださってありがとうございます。もう私は大丈夫なので…」

授業に戻って頂いていいですよ、と言いかけたその時、突然医務室の扉がガラッと開いて長い黒髪をポニーテールにした背の高い女の子が入ってきた。眼鏡の奥にある鋭い眼差しで医務室をさっと見渡し、私のそばにいる二人を見つけると大きく舌打ちをする。

「おい、どこほっつき歩いてたんだよ。学校中探しまわったんだぞ」

言葉は乱暴だが、とても綺麗な女の子だ。スタイルも抜群で、まるでモデルみたい。

「おー真希」
「明太子」

棘先輩は相変わらず何を言っているのか分からないが、パンダ先輩の態度からして(親しげに手を振っている)多分彼女は二人と同級生。つまり私からして一学年上の先輩に当たるはず。私はぺこりと会釈したが、女の子の方は気がついていないようで「ったく、スマホ見とけよな」と二人に対し悪態をついた。どうやら私は眼中に入っていないみたいだ。
ぽかんと三人の様子を眺めている私に硝子さんは「はい、水」と言って薬と水の入った紙コップを手渡した。硝子さんにしてみればすっかり見慣れた光景らしい。早くこの頭痛と吐き気を治したい私はすぐさま口に薬を含むと、コップに唇を当てた。その間も女の子は喋り続ける。

「予定変更だ。琢真さんから連絡があって悠仁の妹が早退したらしい。もうそろそろこっちに着いてる頃だからさっさと警護に行くぞ」

ごっくんと医務室中に響き渡るような音を出して私は水を飲み込んだ。あれ、これって私の前で話していいやつ?
後ろを見るとパンダ先輩は「あちゃー」と手で顔を抑え、棘先輩は顔の前で両手でバツ印を作り「おかか!」と言っていた。
そんな二人の様子に、何も気づいていない女の子は不思議そうに小首を傾げる。

「なんだよ?」
「真希さん、真希さん、ご本人がここにいらっしゃるんですよ」
「しゃけ」

同級生が指差す方向を見て、初めて気がついたように彼女の目がようやく私に向けられる。比較検討する音が聞こえてきそうなほどじっくりと私を見つめると、次の瞬間顔をさっと青くした。

「は、や、く、言、え、や」
「いやさっきから澄花ずっと挨拶してたぞ」
「ツナマヨ」

な?とパンダさんに言われ、私は何て返したらいいか分からず曖昧に笑って誤摩化した。彼女と面識もない私に話を振らないで欲しい。

真希と呼ばれた彼女は「そう言えば前にもあったな、こんなこと」とため息をつくとバツが悪そうに顔をしかめた。

「悪りぃな。昨日色々あってあんまり本調子じゃないんだ。さっきのことは全部忘れてくれ」
「えっと、それってつまり……」
「全部だ」
「あ、はい」

やっぱりさっきのは私の前でしちゃいけない話だったんだ。まあ、宿儺にも忠告されていたし自分でもなんとなく分かっていたけれど。五条さんに口止めされているのかな。私はあの軽薄は服を着て歩いているような某教師を思い出しながらそんなことをぼんやりと思った。

「ところでオマエら何でこんなところにいるんだよ」
「澄花が具合悪そうに踞ってたから連れて来たんだ」
「しゃけ」
「ふーん……熱中症か?」
「えっと……その辺りを含めて硝子さんとお話したいです。二人っきりで」

失礼かな、と思ったけどちょっと勇気を出して言ってみた。このままじゃ二人っきりになるどころかますます人が増えてしまいそうだ。突然悠仁やあのゴリラが現れても不思議じゃない。
怒らせちゃったかな…?と恐る恐る顔色を伺ったが、真希さんは二つ返事であっさりと了承してくれた。パンダ先輩も棘先輩もだ。あまりにもあっけなかったので肩すかしを食らった気分だ。
「外にいるからなんかあったら叫べよ」と言い残すと、三人はさっさと医務室から出て行った。

「そう言えば今日憂太から電話があってさ。真希元気かって。やっさしー」
「あっそ。人のことより自分のこと心配してろよって言っとけ」
「照れんなや!!顔赤いぞ!!」
「しゃけしゃけ」
「何勘違いしてんだ殺すぞ!!」

「それで?私に話って?」
三人が医務室の外でギャーギャー言い争っているのを無視して硝子さんが尋ねた。やはり大人と言うべきか、周りがどれだけ騒がしくても動じた様子がない。気怠げに机に肘をついて、私の言葉を待っている。
私はひそかに大人になったら硝子さんみたいな落ち着いた女性になろうと心に誓った。

「えっと…体調のこともそうなんですけど、硝子さん頼みたい事があって…」
「頼みたいこと?」

私はまたしてもベッドに視線向けた。やはり生きている人間の気配がしない。ひんやりとした室内とほんのり漂う防腐剤の匂いのせいで、死体安置所でおじいちゃんの顔を最後に見た時のことを思い出した。悠仁はいなかった。私は一人でおじいちゃんの亡骸を見つめながら、人はこんなにも簡単に消えてしまうのだと思い知った。
それからずっと、おじいちゃんとの約束が呪いのように私の体に纏わりついている。

『悠仁を頼むな、澄花』

分かってる。分かってるって、おじいちゃん。
私は宥めるように心の中の亡霊に向かって呟いた。

そして、自分を奮い立たせるように拳を握りしめると、硝子さんにもう一度向き合った。




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