「邪魔だ、どけ」

宿儺はそう唸ると、恐怖で凍り付いている私を容赦なく膝から突き落とした。途端に無防備な私の身体はなす術もなく丸太のように屍の山を転がっていく。部位に寄っては鋭く尖っている骨が皮膚を引っ掻いたり突き刺さったりして割と本気で痛い。最後には例の濁った湖の中に情けなく顔から着水した。本当に容赦ないな、こいつ。

未だに頭が混乱したまま、髪も制服もぐっしょりと濡れた状態でどうにか立ち上がると、ちょうど音もなく降りて来た宿儺と目が合った。悠仁と同じ目が忌々しそうに細められる。

「許可なく目を合わせるな。不愉快だ」
「ご、ごめんなさい…」

慌てて足元に視線を落とす。水滴が髪を伝ってぽちゃりと水面に落ちる。その間も頭の中は数学の授業の時とは比べ物にならないくらい目まぐるしく回転していた。眠気は宿儺のおかげですっかり吹き飛んでいた。

ここは間違いなく彼の生得領域だ。ほんの少しとはいえ居眠りをして夢を見てしまったのだろう。東京に来てからもうこれで二度目だ。前は夢を見ても何も起こらなかったのに。五条さんの言う通り、何がきっかけでここに来てしまうのか分からない。

「俺がお前を呼んだ」

私の心を見透かしたように宿儺が答えた。
「え?」と思わず顔を上げると(勿論目を合わせないようにして)、彼は不可抗力だと苦々しげに顔をしかめていた。

「用のついでに俺の呼びかけにオマエの魂が応えるかどうか試した。あの術師が言っていた魂の結びつきとやらが気になってな」

その口ぶりからすると本当にただの思いつきだったのだろう。今はまた自分のテリトリーを侵されて苛々している。私からすれば本当に迷惑な話だ。
……勿論そんなこと口が裂けても言えないから罵詈雑言は心の中に留めておき、代わりに「それで何の御用でしょうか…?」と彼の口元を見つめながら恐る恐る尋ねた。

「ただの暇つぶしだ」

宿儺は悪気なしにそう言い放った。
かの両面宿儺を目の前にして思わず脱力しそうになる。天上天下唯我独尊。まさに彼にぴったりな言葉だ。きっとこの男は、人の痛みも苦しみも何も理解できないのだろう。だって、呪いだから。私たちとは違う。彼に普通の人間と同じことを求めるのは御門違いもいいところだ。少なくとも、私は自分にそう言い聞かせて納得させるしかなかった。

すると、ふと何かを見つけたように宿儺の不機嫌そうな顔が卑猥な笑みに輝いた。それを見て、直感的に嫌な予感がした。悠仁と、ほんの少しだけ私にも似ている目が三日月型に変わる。

「オマエのような乳臭い小娘に手を出すほど飢えてはないが、今のその姿、なかなか煽情的だな?」

その言葉に私はハッと自分の姿を見下ろした。居眠りする前に以前の学校のブレザーを教室の椅子に掛けていたから身につけているのは白いシャツだけ。それが先ほど顔から湖に突っ込んだせいで濡れてぴったりと肌に張り付き、下着や身体のラインがくっきりと露わになっている。そしてスカートは、転がっていた間にどこかに引っ掛けたのか、裾が破れて膝まで剥き出しになっていた。

全身が燃えるようにカッと熱くなった。これはさすがにやばい。やば過ぎる。
私は無駄な足掻きだとは分かっていたが、慌てて両手で自分の身体を覆い隠した―――あまりにも恥ずかし過ぎて、気絶してしまいそうだった。呪いとはいえ、宿儺は仮にも男で、双子の兄と同じ姿をしている。それがますます私の羞恥心を煽った。ああ、穴が入ったら入りたいし、このまま消えてしまいたいのに、どうして宿儺は今私を殺してくれないんだろう。自分の死を望むのはこれが初めての経験だった。

一方の宿儺は動揺している私を見て「ケヒ、ヒヒッ」と愉快そうに笑い声を上げた。そして、頭の先から足の先まで舐めるように視線を這わせると、

「オマエ、見かけによらずいい身体をしているな。先刻の舞いも中々だったぞ」とからかうように続けた。

舞い?舞いってまさか、ダンス部の入部テストのこと?こいつ一体どこで見てたの。
あの時の自分の表情を、腰の動きを、惜しげもなく大きく開いた両足を、宿儺が見ていたと考えるだけでぞっとする。しかも私、スカートの下に下着以外なにも履いていなかったのに。このままでは彼に殺されるよりも先に恥ずかしさで死んでしまいそうだ。

「小僧と同様つまらん娘だと思っていたが、オマエの方はそうでもないらしい―――不意を突かれるのは気に入らんがな」

顔を真っ赤にして立ち尽くしている私を無視して独り言のように呟くと、宿儺はその場に腰を下ろした。さっきまであんなに不機嫌だったのが嘘みたいだ。多分こんなにも愉しそうな彼を見るのは初めてかも。
こいつの情緒が分からん、まじでついていけない、と心の中でこっそり思っていると。

「澄花」

宿儺が、私の名前を呼んだ。まるでいつもそうしているかのようにごく自然と、淡々とした様子で。
名前を呼ばれたのに、すぐに反応できなかったのは絶対に私のせいじゃない。彼が私の名前を呼んだことは一度もなかったし、いつも「オマエ」か「小娘」と呼ばれていることに慣れていたから面食らってしまったのだ。それでも相手が宿儺ということもあり、慌てて返事をしようとするも、「あ、へ、ひぇい」と間抜けな声が出てしまった。さすがにもう殺されるだろうと覚悟したが、宿儺は一顧だにせず、

「いいものを見せてくれた礼にオマエに一つ忠告してやろう」と自分の膝に頬杖をつきながら言った。
「ちゅ、忠告?」
ショックを引きずっていた私は馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す。

「オマエ、今朝の連中を見てどう思った?」
「今朝の連中って…七海さんと伊地知さんですか?」

彼の沈黙を私は肯定と受け取った。

「えっと……めちゃくちゃ大人でいい人たちだなって」
「………」

あ、宿儺ってこんな呆れ顔するんだ、と一瞬で凍り付いた空気の中、私は呑気にもそんなことを思った。極度の緊張感に晒され、二度も殺されている内に段々と余裕が生まれてきたのかもしれない。彼の表情の変化が少しずつ分かる様になってきた。
 
「自分が何故ここにいるのか考えろ、バカめ」
はぁーと溜息をつくと、宿儺は吐き捨てるように言った。

「外に出るなり、示し合わせたように現れた術師共を見て、おかしいとは思わなかったか?小僧と別れてからどこからともなく向けられている視線にはオマエでも気がついていただろ。彼処に足を踏み入れた時よりオマエは見られている―――あの術師の仲間にも、奴らの忌敵にもな」

宿儺の言うことはきっと間違ってはいない。心の何処で伊地知さんの車がタイミングよく現れたのには違和感を感じていた。それに埼玉方面へ向かうと言っていたのにあの二人を乗せた車が私を降ろした後逆方向へ向かっていくのも目撃していた。
でもきっとあの二人は五条さん側、つまり味方だと思う。七海さんは分からないけど昨日の様子を見ていると伊地知さんが五条さんに逆らうなんてあり得ないだろうし。
一方で私を宿儺の第二の器として見なし、処刑しようと目論んでいる敵は今はまだ接触してきていない―――いや、できないのだろう。五条さんが私を一人にさせないうちは。
得体の知れない存在が自分の命を狙っているかと思うと背筋がゾッとした。正体が分かっている分、宿儺の方がまだましだ。しかも、こことは違って殺されてしまえば、本当に死ぬことになる。生き返ることは二度とない。

「食い物にも、親しげに近付いてくる連中にも気をつけていろ。知らぬ間に寝首をかかれているかもしれんぞ?」

青ざめている私を煽ると宿儺は薄ら笑いを浮かべて立ち上がる。次に何をしでかすか分からない化け物と向き合い、咄嗟に身構える。今日こそは現実の世界にいる誰かが私を起こしてくれるまで粘ってやる。死にたいと思ってしまったけど、やはり痛いのも辛いのも、もうこりごり。どうにかして時間を稼がないと。そのためにはストリップでも何でもするつもりだ。
 ふいに女物の着物がふわりと私の目の前を横切ったかと思うと、耳元で宿儺の低い声が聞こえてきた。

「さっさと目を覚ませ。奴らが来るぞ」

そして気がつくと、宿儺は私の胸に風穴を開けていた。
何が起こったが分からず、自分の身体を見下ろし、今度は目の前の化け物を見た。彼の手の中に心臓があり、かすかにそれが脈打つのを確認した瞬間、私は叫び声を上げながら弾かれたように椅子から立ち上がった。

気がついた時には私は教室にいて、さっき知り合ったばかりの同級生たちが叫び続けている私を困惑したように見つめていた。




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -