翌日。
家入さんから処方された薬のおかげで、あの後夢を見る暇もなくぐっすりと熟睡できた。こんなにも満足感のある睡眠は随分と久しぶりで、身体が軽くなったような気がした。
朝は筋トレをして午後は京都校と野球をするという悠仁と別れて、今私はスマートフォンにダウンロードしてある地図アプリを確認しながら最寄り駅に向かって歩いている。本来なら今日は土曜日の体育祭の振替休日なのだが、これから通う学校では普段通りの登校日だ。
 五条さんが用意した高校はネットによると宮城の学校と偏差値が殆ど変わらず、学業にも部活にも力を入れている進学校だった。ただ前の学校では家から徒歩十分で通うことができたのに、この学校に辿り着くには乗り換え二回、徒歩二十分、合計で一時間かかる。元々朝が弱い私には普段より一時間も早く目を覚まさなければならないのは軽く拷問だった。しかも今週は更に酷い。
急に転校が決まったので、新しい学校の制服はまだ届いておらずこの一週間は以前の学校のブレザーを着なければならない。全校生徒がセーラー服という中では百パーセント浮くし、新参者だと表明しているようなものだ。
悠仁と違って目立つことが嫌いな私の足取りは自然と重くなる……そもそも東京の電車の路線に無知なのに無事に辿り着くことができるのだろうか。現代の三種の神器を持っているとはいえ、私はかなりの方向音痴だというのに。
 ため息をつきながら永遠に続きそうな下り坂を歩いていると、見覚えのある黒塗りの車が私の隣に並んだ。スマートフォンからそちらに視線を向けるとウィンドウが下りて伊地知さんの顔が現れた。会うのは二回目なのに伊地知さんを見るとどういうわけかほっとした。

「おはようございます。これから学校ですか?」
「おはようございます。はい、今ちょうど最寄り駅に向かってて……」

そう言いながら私は車の後部座席に伊地知さんの他にもう一人いるのに気がついた。ゴーグルのような眼鏡で経済新聞を読んでいるその佇まいからしてザ・大人って感じ。高専にも五条さんや伊地知さん以外にこんな人がいるんだ。五条さんの印象が強過ぎて、ちゃんとした大人もいるなんて昨日伊地知さんに会うまで思いもしなかった。

「確か虎杖さんの学校は埼玉方面でしたよね?私たちもちょうどそちらに向かうところで……よかったら相乗りしませんか?」
「えっ!いいんですか?」
「もちろん。高速を使うので通勤ラッシュもないですし、すぐに着きますよ」
「すごく有り難いです。でも……」

ちらりとその後部座席にいる人に目を遣る。私みたいな小娘と一緒になって迷惑じゃないだろうか。何かの弾みでお仕事の邪魔をしてしまって途中で道路の真ん中で降ろされたりしたらどうしよう。私悠仁と違ってあまり空気読める方じゃないんだよね。

「私は構いませんよ」

私の視線に気がついたのか、その男の人は新聞を畳みながら言った。しゃ、喋った……。想像した通り落ち着いた深みのある大人らしい声で胃がひっくり返りそうになる。
大丈夫ですよ、と優しい笑みを浮かべる伊地知さんに促され、私は緊張しながら反対側の後部座席のドアを開けた。男の人は五条さん程ではないけど背がすらりと高くて、セットされた髪型も身につけている白いスーツも何もかもきっちりとしている。一目でこの人に逆らってはいけないと直感が告げていた。きっと自分にも他人にも厳しいタイプ。果たしてお行儀よくできるかな私。

びびっているのを悟られないように笑みを浮かべながらぺこりと頭を下げる。

「はじめまして、虎杖です。今日は相乗りさせて頂いてありがとうございます」
「どうも、七海です。あなたの話は虎杖君からよく聞いてます。もう耳にタコができるほど」

あの馬鹿兄貴。一体この人に何を話したんだ。野薔薇ちゃんや伏黒君にも余計なことを言っていないといいんだけど。
悠仁に対する苛立ちを覚えながら、恐る恐る七海さんの隣に座り、荷物を足元に置いてシートベルトを締めると、バックミラー越しにそれを確認した伊地知さんが車を容赦なく発進させた。だらだらと続いていた同じ風景があっという間に車窓の向こうを流れていく。座席もふかふかだし、快適そのものだ。

「先ほどの続きですが、相乗りは別に気にしていません。あなたは子供ですし、大人を頼って利用すればいいんです」
「は、はあ……」

利用すればいいって言われても…。私も悠仁も周りにお祖父ちゃん以外に大人がいなかったし、自分たちのことは自分たちでやってきたから他人にどう頼ればいいのか未だに分からない。それに両親のこともあって私は大人をすぐには信じられずにいる。まあ、五条さんはともかく、伊地知さんやこの七海さんはまだ信用できそうだけど。

「七海さんも呪術師?なんですか?」
「そうですが、何故そんなことを?」
「あ、いや、その…五条さんとは全然タイプが違うので…」
「あの人は特別ですよ」

七海さんは「特別」の部分を強調し、皮肉っぽく言った。もしかして私地雷踏んだ?

「ところで、虎杖さん。新しい学校は楽しみですか?」すぐさま空気を察して運転席の伊地知さんが話を変えた。本当にいい人!
「全然。私新しい環境とか目立つことが苦手で。それに東京の人は冷たいってよく聞くし、馴染めるかどうか……」
「大丈夫ですよ。確かに他人に興味がない人も大勢いますが、困っている人を無視するようなことはないですから。それに虎杖さんなら沢山友達ができますよ」
「はははーそれは絶対ないです」私は横目で景色を眺めながらきっぱりと断言した。伊地知さんは気を遣って言ってくれているのだろうが、私は自分が世界一の人見知りでお祖父ちゃんと同じように気難しく他人に対し愛想がないと自負している。こんな人間と友達になろうと近づいてくる人は相当変わっているか単に物好きなだけだ。

「シュレディンガーの猫ですよ」ふいに隣にいる七海さんがゴーグルのブリッジ部分を指で押し上げながら口を挟んだ。
「しゅ……何です?」聞き慣れない言葉に思わず聞き返すと

「‘‘シュレディンガーの猫’’。物理学者シュレディンガーはある箱を用意して猫を一匹入れ、そこにいつ蓋が開くか分からない毒ガスの入った小瓶を一緒に入れる実験をした。蓋が開き、毒ガスが洩れたのかどうかは外からは見えないので箱を開けるまでの間、猫は生きているとも死んでいるとも解釈できます」と七海さんが説明した。

……つまり、どういうことなのだろう。完全に文系脳な私にはさっぱり理解できない。生物ならともかく物理や実験となるとからっきし駄目なのだ。
 ぽかんとしている私に、七海さんはため息をついた。

「つまり虎杖さんが新しい学校でうまくいくか、うまくいかないかどうかは実際に蓋を開けてみないと分からない。つまり結果はやってみないと分からないということです」

なるほど、どうやら励ましてくれているらしい。かなり回りくどくて分かりづらいけど。でも七海さんの言うことは尤もだ。っていうかこの人、初対面の女子高生にアドバイスするなんて見た目よりずっと優しくて世話好きのかもしれない。

「まあ、一番の関門は友達作りでしょうが、それは部活にでも入ればどうにかなるでしょう」
「そう言えば前の学校では何部だったんですか?」と伊地知さんも興味津々に尋ねてくる。
「ESSです。前の学校は……あ、兄と同じ学校だったんですけど…全生徒入部制で、祖父の看病もあって五時までに終わるのがそことオカルト研究部しかなくて」さすがに悠仁と同じ部活は死んでも嫌で、とは言えなかった。
「なら今度の学校でもESSに?」
「いえ、祖父も亡くなったし、制限もないので心機一転して新しいことにチャレンジしてみようかなって……チアかダンス部に入ろうかと」

そう言うと、伊地知さんは納得したみたいだけど七海さんの方は少し驚いたような顔をした。

「……変ですか?」
「いえ。ただ目立つことが嫌いなのにその手の派手で煌びやかな部活に興味を持つのが予想外だったので」
「元々は私も悠仁と同じで身体を動かしたりするのが得意だったんです。ダンスも体育の授業でいい線いってたし、音楽に合わせて自分なりに身体を動かすのが好きで…まあ当時は周りと合わなかったけど……今回は環境も変わるし、どうなるか分からないけど、そのシュワルツェネッガーの猫って感じですね」
「シュレディンガーの猫ですよ、虎杖さん。シュワルツェネッガーはハリウッド俳優でしょう」

七海さんの言葉に伊地知さんが噴き出した。この人、いつも疲れきった顔をしているけど、こんな風に笑うこともあるんだ。高専にいる大人は三人しか知らないけど、みんな感情はしっかりとあるらしい。
私にじっと観察されていることに気がつくと、伊地知さんは誤摩化すように咳払いをして話題を変えた。

「……ラジオでもかけましょうか。虎杖さん音楽好きですよね?」
「あ、是非是非」

途端に軽快なBGMとDJの『……お次はこの夏全米ナンバー・ワンヒットを獲得したお騒がせフィーメール・ラッパーの新曲…!』と言う甲高い声がカーステレオから聞こえてきた。そのメロディーを聞くなり、即座に私の身体が反応する。元々このラッパーのファンで、この新譜も実は配信された瞬間にダウンロードしていた。何度も繰り返し聞いていたので歌詞もリズムも全部覚えている。お金を稼ぐのは娘のため、でもお金も娘も同じくらいに愛してるというとんでもないリリックだが、その直球過ぎる内容に魅了されてしまったのだ。

最初は七海さんの手前大人しく席に座っていたが、サビに近づくにつれ、じっとしているのが難しくなってきた。そしてサビに差し掛かった瞬間、ついに私は我慢ができなくなった。
まだ出会って数分しか経っていない七海さんの前で、私は大声で身振り手振りを交えながら歌い始めた。それはもう、カラオケばりの大音量で。高専の自動販売機で買ったお茶の入ったペットボトルをマイク代わりにして。もしシートベルトをしていなかったら、窓から身を乗り出して他の車に向かってラップをかましていただろう。

驚いて面食らっている七海さんの一方で、私がこうして突然歌い出すのを見るのはこれで二度目な伊地知さんはもうすっかり慣れたのか平然と運転を続けている。昨日仰天して木に突っ込みそうになっていたのが嘘みたいだ。あの時は五条さんもいて、彼の方は「伊地知ちゃんと前見て」と注意しながらもゲラゲラと大笑いしていた。

「………チア部やダンス部に入りたい理由がよく分かりましたよ」

体力が有り余ってるんですね、と下品なスラングを交えて歌い続ける私を見て、七海さんがぽつりと呟いた。

「シュレーディンガーの猫というよりブラックボックスかもしれませんね」
「それならもっとタチが悪いですよ」

大人たちがそんな話をしていたことに歌うことに心血を注いでいた私は全く気がつかなかった。

……

結論から言って、猫は生きていた。
新しいクラスメイトは皆拍子抜けするほどいい人たちばかりで、前の学校より授業が進んでるところがあれば丁寧に教えてくれたり、移動教室の時にはまだ勝手が分からない私のために何人かが付き添ってくれた。学校自体は東京という土地柄のせいか、転校生は珍しくなく、また皆周りに無関心ということもあり私の制服が悪目立ちすることもなかった。
クラスの中にはダンス部の子がいて、私が興味を持っていることを伝えると昼休みにダンス部が自習練習している体育館に連れて行ってくれた。そこで入部テストに参加し、どういうわけか制服姿のままハイヒール着用という踊るには不向きな恰好を強制させられたが部員や顧問に「荒削りだけど大胆で魅力的。見ているこっちが踊りたくなる」と大絶賛を受け無事テストをパスした。ただ好きな音楽に合わせて体を動かしただけなのに。
放課後にチア部の見学に行くつもりだったが部長の「ぜひとも我が部に!」という熱意に根負けし、その場で入部手続きを完了させた。
これまでのところ、何もかも順調だった……六時間目までは。


今私は黒板に羅列されている数字を凝視し、脳みその全細胞を総動員させてこの数式を理解しようとしていた。オッケー、落ち着いて。この式は三角形の最小値を求めようとしているんだ。うん、多分きっとそうだ。
 国公立大学を目指しているというのに私は昔から数学や理科がからっきし駄目で、特に数学は高校生になってからはますます理解できなくなっていた。数学なんて生きていくのに本当に必要なんだろうか?小学生レベルの問題が出来たら充分じゃないの?
しかも数学の先生は定年間近のおじいさんで、生徒たちを愉しませようとする努力はしないタイプで、かつゆっくりとした口調で話すものだから授業開始五分ですっかり睡魔に襲われていた。そう思うのは私だけでないらしく他の生徒たちも何人かは授業を放棄し先生に気づかれないように机の上で突っ伏している。
暫くの間、なんとか睡魔と闘っていたが、幸か不幸か、私の席は窓際の一番後ろで、秋のまだ暖かい日差しと眠っていても気づかれないだろうという安心感がますます私を誘惑する。ほんの少しだけなら大丈夫なんじゃない?今は解説してるだけだし、その後は十分間練習問題を解くだけだからちょっと居眠りしても平気なはず。しかもこの先生さっきから教卓から一度も離れてないしバレはしないって。それにこのアルファベットと数字を見ていると目蓋が段々と重くなっていく……。先生の口が餌を求める魚みたいにパクパク動くが、もう声は聞こえなくなっていた。私はたった一度だけのつもりで目を閉じる。ほんの少し…ほんの少しだけ…。


「俺の膝を枕代わりにするとはいい度胸だな」


聞き覚えのある不機嫌そうな声に、私はハッと目を開けた。どういうわけか、兄そっくりの、だけど別人の顔が、目と鼻の先にある。胎児のように丸くなった身体が彼が胡座をかいた足の間にすっぽりと収まり、自分の頭が彼の膝の上にあることに気がつくのに暫くかかった。嘘。どうしてこいつがここにいるの?
私は顔を引きつらせながらその名を口にした。夢ならどうか今すぐ覚めて欲しい。

「宿儺……」

さっきまで生きていたはずの箱の中の猫は、今では死にかけていた。



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