幸福論2


   2.
「私にとっての幸福……ですか」
 パイクは葉巻の煙にわずかに目を細めながら、やんわりとその質問をかわした。
「何をもって幸福とするか。その定義にもよりますね」
「理屈で逃げるなよ」
 ハリーが真剣な面持ちで視線をとがらせる。
 パイクは小さく肩をすくめた。
「べつに逃げてなぞいませんよ。しかしそんなことよりも、冷徹な聖人君子のアラン・ムーン・ハワードが、当人比であるにしろ何にしろ、子供をかわいがっているというのに興味をそそられます。なかなか個性的な子供だというのは前から耳にしていましたが」
「ミドラムの狼憑きの伝説に毒されているんだよ。アランがもっとも嫌うあの話を、平気で口にするんだぞ」
「三つや四つの子供にそんなことを吹き込んだ大人に問題があるでしょう」
「……それはそうだが」
「確か自分の本当の父親は、狼憑きだと思い込んでいるんでしたね。アランはいやがらずにその話の相手をしているんですか」
「頭ごなしに否定すると、子供が心のなかにその妄想を押し込めてしまうだろうって言うんだよ」
 ハリーは怒ったふうに言う。なるほど、彼がナナを嫌う理由の半ばはここにあるのだなと、パイクは微苦笑をうかべ、いくらかなだめる口調で言った。
「前々から義務感は異常に強いひとだったから、子供をひきとったとなると、良き父とならねばならないと考えたのかもしれませんね」
「……子供なんか、ひきとるべきじゃないんだ」
 ぶっきらぼうに決めつけ、ハリーは眉間にしわをよせた。
「あの子供は……よくない感じがする。おまえ、一度くらい会ってみろよ」
「アランが私に会うと思いますか? ましてや愛する娘を紹介してくれるとは思えませんね」
「子供は乳母が毎朝、散歩に連れ出している。サーペンタイン池のそばがお気に入りらしいぞ」
「見て来いというんですか?」
「見てきとけよ。でないと俺の話が三割くらいしか、わからないだろ。ちゃんと見てきて、ちゃんと俺の話をきけよ」
 パイクは呆れて、眉をひそめた。
「なに、我侭なことを言っているんです」
「我侭なものか。おまえだって、好奇心を刺激されているんだろ。俺がきっかけを与えてやってるんだから、感謝しろよ」
 不遜な物言いをしたが、実のところ、ハリーはかなりおちこんでいるらしく、憂鬱な顔をして、ため息をくりかえす。
 葉巻をくゆらせながら、パイクの頭には慰めの言葉が十くらいうかんだが、ハリーが次に何を言い出すかと、ほったらかしにしておいた。
 ややあってハリーは顔をあげた。揶揄されるのを思いきり警戒した低い声音で言った。
「なあ、子供に好かれるにはどうしたらいいんだ」
「ナナのご機嫌をとるんですか」
「悪いか」
「いいえ」
 パイクは笑いを噛み殺して、答える。
「しかし、私に尋ねるのはお門違いでしょう。私はべつに子供に好かれたいと思ったことはないですし、とりたててなつかれる方でもない」
「マチルダがいるだろ」
「マチルダは、アデレイドの娘ですよ。最初からあの子は私にとっては特別な存在だったんです。幸いにもあの子も私を気にいってくれていますが、機嫌をとったことなどはありません。ずっと同じように愛していますけどね」
「言っておくが、俺はあのガキを好きにはなれないぞ」
「アランの姪ですよ」
 ははっと、ハリーは乾いた笑い声をあげた。
「実の娘じゃないってだけ、まだましってことか?」
「ハリー」
「ああ、だけど……子供ができる可能性だって、まだなくはないんだよな。そんなことになったなら、殺意を覚えそうだ」
  吐きすてるように言って、ハリー・アストウェルは葉巻を手にとり、火をうつした。陰鬱なため息を青い煙に変えてくゆらせる。
  パイクはわずかに目をすがめて、そんな友人をいくぶん気がかりなふうにみやった。
 ハリーは、ある意味、パイクにとっては特別な友人と言えた。大切なのはエリン子爵のみで、そのひとさえ無事ならば世界が瓦礫と化してもかまわないというハリーの価値観は、幾らかパイクのそれと似ているからだ。
 あらゆることに興味をいだき、情報の収集に余念のないパイクだが、興味の対象に愛情を抱いているわけではない。彼にとって大切なのはたったのふたりだけ。そのふたりさえ幸福であるならば、他はどうなってもかまわなかった。
 だが異なる点もある。たとえばパイクは、愛するアデレイドの選んだ男を許容して、彼らの娘をアデレイドの分身として愛することができた。だがハリーはちがう。エリン子爵夫妻が仲睦まじく、夫人が優れた女性であるのを認めつつも、感情はいかんともしがたく、彼女は憎むべき恋敵なのだ。
  パイクは小さく呟いた。
「あなたの激情は私にはないものです。まるで凶器のようだ」
「あいつを傷つけたりはしない。あいつの奥方にだって、俺は礼儀正しく接しているだろう? あの女があいつの憩いとなっているのはよく理解している。俺は――」
「知っています。あなたの誓いはね。親友として彼を守るというその約束は、いつもぎりぎりのところでかろうじて守られてはいます。私の助力も大きいですが」
 パイクの最後の言葉に、ハリーはますます不機嫌な顔つきになり、ふいと目をそらした。いつもならば厚かましいくらいの反論をよこすところなのに、かなり参っているらしい。
 ハリーとエリンは、学生時代からたびたび喧嘩と絶交をくりかえしてきたが、子供が原因となることなどはこれまでなかった。ハリーはエリンとの関係に変化の兆を嗅ぎ取り、恐れているのかもしれなかった。
 変化というならば、マチルダの結婚は、パイクにとっては大きな変化だ。しかし会えないのと、会いにくるなと拒まれるのとではまるで意味合いが違ってくる。
 マチルダが結婚して彼のもとを離れたのは寂しくはあったが、いずれ来る日だとわかっていたし、彼女は今もパイクを慕っている。旅先からは毎日のように手紙が届くし、ロンドンに滞在しているときならば、いつでも会うことができるだろう。
 それにトルヴァン伯爵家との縁組は、パイク自身が強く望んでいたものだ。トルヴァン伯爵デレク・ダウニーは、その家柄も資産も、そして容姿及び性格も、すべて愛する姪の結婚相手として合格点をつけられる存在だった。
もっともさきほどのハリーとの会話のなかで、パイクはひとつだけ嘘をついた。
 デレクのことだ。
 嫉妬などけっしてしてはいないし、マチルダをトルヴァン伯爵家に嫁がせたことで、肩の荷をおろしてほっとした部分も大きい――にもかかわらず、彼の宝物を手にいれて幸せそうに微笑んでいる青年を見ていると、少なからず意地悪い気持ちになるのは不思議である。
 もちろんパイクは自分が不幸であるとは思わなかった。――ときに理不尽な目にあうデレクの方が気の毒だろうと思うくらいで、今の生活は充分に満ち足りたものだ。
 エリンはどうなのだろうか。理知と義務とで冷たく心を覆ったあの男にとって、ナナという子供はやはりその義務感を満たすためだけの存在なのか。それともわずかでも幸せと喜びをもたらす存在なのだろうか――
「ナナ・ムーン・ハワードには、あなたの言う通り、興味はあります」
 パイクは、ハリーの憂鬱をからかうような笑みをくちびるに香らせて言った。
「一度この目で見ておいて損はなさそうですね」
 


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