◆ 探偵は今日も不機嫌――もしくはスタンフォードはいつもご機嫌◆


「ワトスンさん!」
 パブのカウンターでグラスを傾けていたワトスンは、背後に明るく子供っぽい声を聞いて、かすかに眉をひそめた。
「ワトスンさん、おひさしぶりです」
 ワトスンは振り返るかわりに、エールを飲み干し、カウンターを離れようとした。
「ワトスンさん、俺ですよ、俺」
 ワトスンは眉間の皺をますます深くした。誰なのかはもちろんわかっている。わかっているから、無視しているのである。
 レイフ・スタンフォードだ。腕をぐいと掴まれたのを振り払ったが、スタンフォードは諦めない。
「ワトスンさんてば」
「いい加減にしろっ」
 背中に抱きつかれそうになって、ワトスンはくるりとふりかえり、低く怒鳴った。
 スタンフォードは無邪気な顔つきで、小さく首をかしげる。
「どうしたんですか? 難しい顔して。あ、そうだ。聞きましたよ。ワトスンさん、探偵の仕事始めたんですよね」
「おまえには関係ないだろ」
「そうなんですか? どうなんだろう。で、ヴィー、どうしてますか?」
「わざわざ俺にきくことはないだろ。おまえだって、しょっちゅうあいつに会ってるんじゃないのか?」
「会ってませんよ。俺、今仕事で忙しくて」
「仕事って、おまえ、何やってるんだ?」
「内緒ですよ、そんなの」
 まるで悪びれたふうもなくスタンフォードは言う。
 だが違法行為、何らかの犯罪に関わっているにちがいない。
 いったいなぜこんな奴との付き合いを続けているんだろうと虚しく自問しているワトスンに、一度は部下だったこともある青年は飄々とした口調で先刻の問いを繰り返す。
「ヴィー、最近何してるんですか?」
「あいつなら、かわりなく不健康に好き勝手な暮らしを送っている」
「じゃ、よかったですね」
「よくないっ」
 ワトスンは溜め込んでいた苛立ちを小さく爆発させる。
「食事も睡眠も不規則で、退屈だからと麻薬をやるし、それに今はまたわけのわからない実験に夢中になっていて――」
 ワトスンがくどくどと言うのを、スタンフォードは途中で遮った。
「そんなの、今更怒ったって仕方ないですよ。だってヴィーがワトスンさんの言うこと、聞くわけないじゃないですか」
 それは確かにそうなのだ。わかっているが、腹立たしい。いや、わかっているからこそ、余計に腹が立つのかもしれない。
 スタンフォードは、ワトスンの不機嫌などどこ吹く風。いつもと変わらぬ調子で、いつもと変わらぬことを言う。
「それより、ワトスンさん。久しぶりだし、ごはん食べにいきませんか? 探偵事務所開設のお祝いに奢ってください」
 茶色の瞳をくりくりさせて、嬉しそうに言う青年の顔を、ワトスンはたっぷり十秒ほど見据えてから口を開いた。
「スタンフォード。ひょっとしておまえの方が俺よりも稼ぎはいいんじゃないのか?」
「そうですか?」
「裏の仕事で、おまえはプロフェッサー・モリアーティの側近だったんだ。ってことは当然――」
「でも俺、あんまりお金には興味ないですよ」
「興味のあるなしの問題じゃないだろ」
 いつもながら話が噛み合わないのにうんざりして、ワトスンは小さくため息をつく。
「ワトスンさん、何食べたいです? 俺は中華がいいなぁ」
「ひとりで行けよ」
「ワトスンさん?」
「おまえと違って忙しいんだよ」
「駄目ですよ、忙しいときにもちゃんと食べておかないと。おなかすくと、苛々しますからね」
「俺はおまえといると苛々する」
「だからごはんを――」
 ワトスンは片手で額を押さえた。なかなかうまくいかない探偵稼業のせいもあって、この探偵氏にとって不機嫌な日々はあと暫く続くのだが、どうやらこの日も例外ではなかったようである。
 そして。
 スタンフォードは美味なただ飯を遠慮のかけらもなくたらふくいただき、この日も例外なくご機嫌に過ごしたのだった。

                ―完―
       



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