天神・月詠
苦界へ堕ちた少女



「――っ、」


慌てて飛び起きれば、そこには見慣れたものたちがあった。

嫌な夢を見た。



「久々、だな…」



この夢を見るときは、決まって嫌なことが怒る後か前。
まだ起こってないから…予兆だ。


この身を売られて、幾年と過ぎた時。

失って失って。
得たものを数えたほうが早いくらい。


私は18歳になって、島原の天神として生きてきた。


どんなに穢れようと私は私だ。

捨てた父母姉妹を守るために、今日も生きていく。


お母様からもらった名は月詠(つくよ)。

それ以外に名はない。


とうに捨ててしまったものなんて、要らない。



選べなかった運命とて、私は天神であることを誇りに思う。
だって、間違いなく自分の力でのしあがっていったのだから。


その時に、開かれる襖。
おかあさまだ。

「月詠、あんたに話がある」

「うちに、どすか?」

「あんた以外にだれがおるん?」


確かにこの部屋には、私しかいない。

しかし―おかあさまが直々にくるとは珍しい。



「月詠。あんたに、太夫の位を与えようおもっとります」



太夫―。

いわば、島原の最高位。


「あんたは禿の頃から優秀やったし、舞いや楽器をとっても遜色ない。それに、床上手やない。若いうちに太夫になっておくにこしたことはあらへんから」


“優秀”。

私が一番嫌いな言葉。


いつもその一言で片づけられて、いろんなところにもっていかれるから。



「ほんまにうちでええんどすか?」

「あんた以外にだれがおんの。さっきもいったやろ」


優秀、だからと。
おかあさまはもう一度言った。


「わかりました。どのくらいでなるんどす?」

「一応一週間後にあんたのお披露目を考えちょりますけど」


どうせ、拒否権なんて最初からないのだから。

私に遺された道はただ一つ。


「はい」


肯定だけ。


*****


おかあさまが去った後、私はすっと息をついた。

いいのかな、私が太夫なんかで。


はだけた着物から、黒い痣が見えていた。


生まれつきある双頭の鷹の痣。
くっきりとした紋様で、消えたことはない。

忌み子、とも言われるがおおむね客には人気だった。


綺麗な痣だ、と。
あんたみたいな気高い生き物だね、と。


よくこんな痣がある女を太夫にしようと思うのかは謎だけど。

でも、自分が恵まれていることに感謝しなくてはいけない。
お客が気に入ってくれなければ、いつも床仕事をするしかないのだから。

舞いや楽器だけでも満足してくれる客がいるのは、血のにじむような努力のおかげだから。



――後悔は、しない。



「月詠、逢状がきたよ」

「いまいきます」


私は立ち上り、鏡に向かう。


白粉で顔を彩り、紅を塗る。
男たちに手伝ってもらって綺麗な着物を着て、ゆるく帯を結ぶ。
髪を結い、豪華な簪で飾りつけていく。





こうして、天神・月詠は舞台に上がる。


踊り、弾き、酌をして、愛想を振りまいて。

そして、客を取り。


「さすが月詠、麗しい」

「おそれいります。ほな、どうぞ」


しゅるり、と帯が解かれて着物の拘束がゆるむ。
男の無骨な手が体中をはい回り、首筋、鎖骨、胸、腹へと―徐々に下がっていく。


「美しいのぅ…」

耳たぶに口づけられ、口づけも下へ下へ。


そこで、ふと手が止まる。
左腕の、鷹で。


「いつもながら思うが…この痣は不思議だなぁ…刺青か?」

「そんな。体が命のうちらにそんなこと許されまへんもの。もとからあったんどすけど、消えないんどす」

「それはそれは可哀想に…それで逃げていく客もおったろう」

男は、愛おしそうに鷹の双頭に触れ、口づける。


「へぇ。もちろんおりましたよ。『化け物』ゆうてはるひともいたくらい」

でも、と私は殺し文句を口にした。


「でも、旦那はんはうちのこと、見捨てないでいてくれますよね?」


上目遣い、目元も声も濡らして、上気した頬で。
甘く、しっとりといえばたいてい。


「当たり前じゃ。お前さんほどの上玉はいないからの」

「まぁ、嬉しいこと言ってくださるんどすね。私の心と体は、旦那はんのもんだけどすえ」

「ほほう。じゃあ、喜んでいただくかの」


ぱさり、と長襦袢が床に落ちる。
髪は乱れ、広がり畳の上に転がるようになる。

男が私の上に乗り、愛おしげに撫でてくる。


「さすが、京一番と名高い天神じゃ」

「ご冗談を。うちなんかまだまだやし」

「今じゃなくてもそうなるさ。もうすぐ太夫だろう?」

私をかき抱いて、今度は唇を吸ってきた。


「じゃあ、私が太夫になったらお祝いしてくれます?」

「もちろん。最高のものを持ってくる」

「楽しみにしてます」


そうやって、私は男の熱に溺れていく。
たとえ、望まない熱でも。


私は、叶わぬ願いを抱き続け、生きていく。


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天神…太夫の下の位。史実の山南敬介の愛人・明里もこの位についていた。
太夫…京の花街でいう最高位。江戸の方では「花魁」という呼称に変わった。読み方としては「たゆう」や「こったい」があげられる。

などど、うろ覚え知識を披露。