「……こ、んにちは」

 今か今かと待った診察の日、フーゴははやる気持ちを抑えながら椅子に座ってランポーネが口火を切るのを待っていた。話したいことが、話さなければならないことがたくさんある。しかしランポーネは何か考え込むような様子で瞼を閉じ、デスクに肘をついてその上にだらしなく頬を乗せてじっとしたまま動かない。焦れたフーゴが勇気を振り絞って出した声は、緊張と不安のせいか少し裏返ってしまった。

「ああ、来たね」

「……さっきからずっと居ましたよ」

「そう?ごめんね」

 大して悪びれる様子もなく、ランポーネはぎしりとオフィスチェアを軋ませながら足を組みかえる。珍しいことに、何かを頬張っている様子もなければデスクの上に菓子の袋が散乱しているということもなかった。

「今日は……その……いつもの、」

 あれは間食なのか、それとも主食なのか。どう言い表せばいいのかと言葉を濁していると、ランポーネは「ああ」と思い当たったように声を出した。

「三時のメレンダ?今日はないよ」

「……三時以外にも食べてたでしょう」

「そうだっけ?まあ、僕の話はいいんだよ。どうなの、最近は」

 そう言って顔を上げたランポーネと目が合いそうになって、フーゴはすっと視線を外した。近くのカレンダーやぬいぐるみを見るふりをしてわずかな時間を稼ぐ。医者の方が話を聞く体勢になっても、患者の方の準備ができていなかった。
 話題があるのと話ができるのは実のところ全く別の問題で、話さなければと思うことは山ほどあるはずなのに、喉につかえて何も出てこない。山ほどありすぎるから詰まって出て来れなくなっているのかもしれない。小刻みに揺れ始めてきた膝をさすりながら、フーゴはなんとか「あの」と声を搾り出した。

「幻聴が、消えました。幻視の子供も」

「ああ、そうなの。どうやって消えた?」

「……ええと」

 どこから話すべきか。
 前回の診察からまたささやかな非行に走り、それが思っていたほどつまらなくはなかったこと。けれど馬鹿馬鹿しいと自分を醒めた目で客観視する瞬間があること。ランポーネに指摘された通り、息苦しさがなくなったこと。子供の幻覚がうっとおしかったこと。けれど上手くあしらえるようになったこと。または子供を虐めて溜飲を下げるようになったこと。そしてその幻覚が数日前に突然消えたこと。あれほど消えろ消えろと願っていたはずなのに、いざ理由も説明もなく消えられると落ち着かないこと。
 どうしてなのか。良かったのか、悪かったのか。どうすればいいのか。どうもしなくていいのか。聞きたいことが、聞いてもらいたいことがありすぎる。頭の中で何本もの長い糸がぐちゃぐちゃに絡まっているような心地だった。物事の整理は得意なはずだったが、やはり一度感情が入った途端に何も分からなくなる。

「ゆっくりでいいよ。フーゴの話したいところから話して。話したいところがなければ、今思いついたことから話して。論文みたいにまとまってなくたっていいから」

 今、思いついたこと。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。「両親が」視線は上げないまま、自分の膝を見つめて話し出す。

「両親が……夜遊びに気づいて。夜遊びって言ってもそれほど遅い時間じゃあなかったんですが、とにかく気づいて、怒鳴られて、泣かれて、それで、叩かれて……」

「ああ、だから湿布貼ってるの」

「ええ……ちょっと、色が悪いんで」

「まだ痛む?」

「……少し……」

 父親に手を上げられたのは何年ぶりだろう。ずっといい子で暮らしてきたせいで随分と衝撃的だった。好きじゃあない人に殴られても、人は痛みを感じるのだと知った。
 感情的になるのは母親ゆずり、頭に血が上って手が出るのは父親ゆずり。フーゴは先日の騒動で思いもよらず自分のルーツというものを目の当たりにしてしまった。悪いところばかり受け継いでいる。
 もしもフーゴがそっくりそのまま両親のクローンのような人間だったら、きっとこんなことにはならなかったのだ。母親の愛を愛と信じることができる感性を持っていれば。父親の“自慢の息子”を自分でも誇りに思える価値観を持っていれば。柔らかな顔立ちは母に似たし、瞳の色や指の形は父によく似たのに、どうしてか一番大切なところが誰とも合わなかった。

「……主だった出来事はそれで全部です。あとは、大学終わりに直帰してくるよう約束させられたくらい」

「そう。大変だったね。よくこらえた」

 不意に、視界が滲んだ。鼻先がつんと痺れる。ついさっきまで何も感じていなかったはずなのに、突然感情が溢れてくる。ありきたりの優しい言葉を掛けられただけで、途端に自分が惨めで寂しい人間だと思い知らされた気分になった。フーゴは今、慰められる立場にいる。

「こらえたって、何をですか。何も堪えてません。僕は両親をうまく言いくるめられずに、馬鹿正直に本音を言って、それで衝突した……そうなるのは分かりきっていたのに、回避しなかった。もっとうまく、丸く収める方法があったはずだ。自分がこんなに不器用で馬鹿なやつだったなんて、知らなかった」

 どうしてこんな気持ちになるのだろう。問題を一つ解決したはずだった。釈然としないところはあるにしろ、この医者にかかる原因だった幻覚が消えたのに。息苦しさだって、今はもう感じていないのに。一つも上手くいった気がしなかった。何かを間違えてしまったのだろう、けれどその何かが分からない。

「何を間違えたのかすら分からないんです。だって、途中までうまくいってた……うまく、いってたのに」

 何かを間違えて、失敗して、こうなってしまったのだ。
 ランポーネはフーゴの言葉が切れるまで待ち、そして言った。「君は自分が嫌いなんだね」

「……別に、好きでも嫌いでもありません」

「そう。じゃあ、少し“好き”の方に気持ちを傾けようか。好きでも嫌いでもないなら簡単だよ。嫌いなものを好きになろうとするよりはね」

 本当は嫌いだと思っているのを見透かされている。確かに嫌いなものを好きになろうとするのは難しい。難しいからできればやりたくないと、そう言うためには自分のことが嫌いだと吐露しなければならない。言いたくないからといって嘘をついたままでは、簡単なのだからやってみようと言われるだろう。

「本当は、好きじゃあない」フーゴはぽつりと本心を曝け出した。「だって、好きになんかなれない。僕は多分性格が悪いし、最近はこうして取り返しのつかないことをした」

「まあ、確かに取り返しはつかないけど、それが失敗と決まったわけじゃあない」

「……失敗ですよ」

「夜にバールへ言って、ディスコテカへ行って、講義をサボって、車を運転して?この短期間に随分といろいろやったもんだよ。“羽目を外す”ってことは出来てる。それも十分にね。失敗なんてしてない」

「本気で言ってるんですか?今の状況は失敗だ。大きなミスをしたんだ。そう考えるのが自然です」

「どうして?君の悩みの種だった幻覚は消えた」

 ぐっと言葉を飲み込む。それが何だというのだ。幻覚がなくなった今も思い描いていた穏やかな生活とは程遠いところにいる。
 あんたのせいで。そう口走りそうにさえなった。しかし実際ランポーネはフーゴに何も強制していない。道を選んだのは自分自身だ。それに両親への不満は通院する前から募っていた。切欠の一部を担ったというだけで、彼には何の責任もない。嫌でも即座にそう結論付けてしまう理性のせいで、フーゴはやつ当たりの矛先をも失った。

「君の問題は何だと思う?」

「……抽象的すぎて、答えられません」

「なら、今一番困っていることは?」

「……両親と喧嘩したせいで、家に帰りたくない」

「そうだね。それは深刻な問題だ。でもね、君の本当の問題は、自分を愛せないことだよ」

 思いもよらないことを言われて、フーゴはぱっと顔を上げた。

「“いい子”は卒業しかけてるんだ。それなら今度は、その堕落した自分を認めて、愛してやること。それが君に必要なことだよ、フーゴ」

「……自分を?」

「自分じゃあ気づいてないんだろうけど、結局、君はがんばってる自分の姿しか認められないんだ。それが誰の影響なのか、もとからそういう性格なのかは置いておくにしてもね」

「そんなこと……」

 ない、とは言い切れない。自分が無償の愛情を注がれて育ったとは思っていなかった。両親の愛情には条件がついている。天才の肩書きを背負って、期待に応えること。いい子でいること。幼い子供は両親に認められようとする。目を向けてもらおうとする。自覚はなくてもその可能性があることは理解できた。
 愛情の条件は、もしかするとフーゴの内側に染み付いてしまっている。

「僕は……誰にも愛されて、ない。愛なんていうのの正体が知りたくて、神父や牧師に聞いて回ったことがあるんだ。『愛はねたまないし、自慢もしないし、自分を利益を求めない、情け深いもの』なんだって。そんな感情を向けてくれる人はいない……大学のやつらはみんな自分の利益を引き出そうと躍起になっているし、父さんと母さんは自慢の種が手放せないだけだ。誰にも愛してもらってない。理由なんて分かってるよ。子供のころから無愛想だったんだ、僕は。愛嬌なんてこれっぽっちもなかった。爛漫に振舞うなんて馬鹿馬鹿しいとすら思って、ずっと本を読んだりパズルを解いたりしている陰気な子供だった。気味が悪いって思われてたこともある。そんな子供を一体誰が愛してくれるっていうんだ?自業自得だよ。誰にも愛されない自分を、よりによって自分が好きになれだなんて、そんなの無理に決まってる」

 自分が愛されない理由をこんなにも事細かに説明するはめになるとは思わなかった。口元が自然と笑っていくのが気持ち悪い。傍から見たらとても痛々しいのだろうと思うとますます薄笑いが顔に張り付いた。

「誰かに愛されてる自分じゃあないとだめだって思ってる?」

「……さあ」言葉のあやだと誤魔化してしまえればどんなにいいだろう。

「僕はもう、愛だとか、そういう不安定で大きなものは欲しくないんだ。今はただ、あなたとこうして話していられれば、それでいいんだ。これだけで十分なんだ……できればこんな話じゃあなくて、もっとどうでもいい話がよかったけれど……もう、誰かに愛されなくたっていい。自分を好きになれなくてもいい。好かれようとして、好こうとして自分をすり減らすより、僕を僕のままでいさせてくれる人の前にただ座っている方が、ずっといい」

 それからしばらく、診察室は水を打ったような静けさに包まれた。自分の放った言葉が頭の中でわんわんと鳴り響いている。呆然としていたせいでどれくらい長い沈黙だったのかは分からなかった。ランポーネが静かに長いため息をついて、足を組みかえる。その吐息と椅子の軋む音にフーゴははっと意識を取り戻した。

「……すみません、別に寄りかかろうっていうんじゃあないんです。それに、こんなこと言うつもりじゃあなかった……」

 自分が勝手にそう思っているだけ。ランポーネは何もしなくていいし、何も気にしなくていい。今まで通りでいてほしい。何も変わらなくていい。しかしそれはフーゴが自分の内心を秘めてこそ叶う願いだ。言ってしまったあとではもうどうにもできない。ランポーネは、戸惑っているように見えた。フーゴの胸に大きな後悔と罪悪感が広がる。

「……すみません、もう時間ですよね。帰ります」

「ああ、うん。お大事に」

 いつもより落ち着いた声色の、味気のない返事。居た堪れなさを感じてばたばたと帰りの身支度をする。内心、ランポーネが微笑んで「じゃあずっとここにいればいい」などと言ってはくれないかと期待していたのだ。望み薄どころかありえないと分かってはいても、どこかで希望を捨てきれずにいた。その浅ましい期待を自分で直視するはめになって、もう散々だと口元を覆う。

「フーゴ、これだけは言っておくけれど」

 そうして逃げるようにドアノブに手をかけたフーゴを、ランポーネが引き止めた。

「僕は君から離れないし、君が僕を嫌いだって言っても傍にいるよ。これまでも、これからもね」

「……どういう、意味ですか?」

「考えないで。大丈夫だから。君は一人で生きていける。いつかね」

 じゃあ、また。ランポーネは眉を下げて困ったように笑いかけた。


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